学は組織を有っている。恐るべきはこの組織なのだ。この組織はまるでソヴェート制度みたいなものだ。文化帝国の文学主義というキャピタリズムにとって、本能的に恐れを催させるものだ。なぜそれが悪いかという証明は一寸出来ない、ただ悪くなくては困るという結論が最初にあるのである。この憎悪は恐怖から生じる。而もこの憎悪が、みずから最も「愛情」を標榜する連中の習性であることは面白い。つまり日本への愛情は公式、科学、への憎悪に他ならぬ。妙な結果になるものだと思うが、なる程考えて見ると日本の現在の支配者達は、最後の努力を払って、科学の駆逐に汲々としている。文教審議会と云い教学局という、どれも明らかに「科学」に対抗していることを思い出さねばならぬ。特に[#「特に」に傍点]教学というカテゴリーが西洋渡来の科学[#「科学」に傍点]に対抗する代用品として、東洋的乃至日本的な封建文化系統から拾われて来たことに、吾々は注意を払うことが必要だろう。
公式主義呼ばわり主義者は併し、単に放言などしているわけではない。チャンとした組織があって云ったりしているわけだ。科学というものを組織的に日本帝国から締め出そうという「日本」の要求に応じる処の、最も文化的な相貌を具えた一翼であることが、以上のことから推定される。公式を恐れることは決して酔狂からではない。それには組織がある。そしてその組織の文化的な体系として、例の文学主義が存在しているわけだ。公式主義呼ばわり主義者には、組織があり体系があるだけではない。実は彼等自身一種の公式[#「公式」に傍点]さえがあるのだ。民族とか国家とか日本とかそういう公式がいくつかあるのであるが、ただ幸か不幸かこの公式は科学的[#「科学的」に傍点]公式でないために(では何の公式なのかというと要するにそれこそただ[#「ただ」に傍点]の公式なのだが)、自分は公式的でなくて相手だけが公式的だ、と云っていられるわけだ。だがそれだけではない、科学的な公式から逸脱し、之を独善的に否定し、そしてこの何だか性の知れない「公式」に移るという、そういうメタモルフォーゼ(変態)か何かが、実は或る一つの公式として科学的に予見され論証されているものなのである。文学主義の批判はそういう科学的公式を与えているのだ。――でこういうわけで、どうしても公式という言葉は自分自身に都合のよくないもので、困った厄介なものなの
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