証し始めればよい。もしそれが面倒になって来たら、論証をやめて時々放言を試みるのも一興であり、また色々効果的でもある、ということになる。かりに前者を「創作」と呼び後者を「評論」と呼ぶことにしよう。――こういう高等学校風景の前には、竹内教授の公式主義は完全に敗北である。それで竹内博士は、高等学校の教授をやめて大学の教授になったように思う。
私自身について云えば、私は今まで曾て左翼公式主義者であったことはないようだ。所謂左翼公式主義者なるものがどんなに間抜けた判らず屋であったにしても、今日公式呼ばわりをするに汲々たる連中よりも真実があったと私は思っている。なぜというに、とにかく左翼公式主義者は公式を使って或る程度まで実際に問題を解いて見せたのに、今日公式呼ばわりしかし得ない連中は、問題が少しも解けずにウロウロしているからである。そこで手持無沙汰から、公式主義公式主義と口を揃えてわめき立てるが、それではその公式主義とは何を意味するのかと尋ねると、満足な返事の出来る人間は連中の中には現在まず一人もいない。単に左翼的であるとか科学的であるとかいう現象を、公式主義と呼んでいるのである。これでは公式主義がなぜわるいかと反問されたら、急に目を白黒させる他ないのが当然だろう。
かつては公式主義という鞭の言葉には慥かに或る真実があった。だが今日ではそんなものは事実あまり存在していないのだから、丁度科学偏重とか軽佻浮薄な思想とかいうような今日の支配者の用語が無内容で滑稽なように、今日では無内容で滑稽なものになっているのだが、それにさえ気づかずに公式主義公式主義とわめき散らしているのは、性格薄弱の症状と見られても仕方があるまい。私や私に似たような連中を、公式主義と呼ぶ人間も少なくないが、実はそう呼ぶ方を少し気の毒なような気がしないでもない。もう少し気の利いたレッテル位い考案出来ないものだろうかと、はがゆいのだ。
併しなぜ公式主義という言葉をそんなに重宝がるのだろうか、と云うと夫は要するに公式恐怖症から来るものだが、それはあとにしよう。公式主義という言葉より、もう少し役に立ちそうに見えるのは科学主義と云うレッテルである。今に科学主義という言葉が公式主義の代理をするようになるだろうと私は見ている。だがそうなると問題はもっとハッキリして来て、相手方の気の毒は一しお増して来るのであるが、それに
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