謀叛論(草稿)
徳冨蘆花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)青山方角へ往《ゆ》くとすれば、

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)谷|一重《ひとえ》のさし向い、

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)磅※[#「石+(蒲/寸)」、第3水準1−89−18]《ほうはく》
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 僕は武蔵野の片隅に住んでいる。東京へ出るたびに、青山方角へ往《ゆ》くとすれば、必ず世田ヶ谷を通る。僕の家から約一里程行くと、街道の南手に赤松のばらばらと生えたところが見える。これは豪徳寺――井伊掃部頭直弼《いいかもんのかみなおすけ》の墓で名高い寺である。豪徳寺から少し行くと、谷の向うに杉や松の茂った丘が見える。吉田松陰の墓および松陰神社はその丘の上にある。井伊と吉田、五十年前には互《たがい》に倶不戴天《ぐふたいてん》の仇敵で、安政の大獄《たいごく》に井伊が吉田の首を斬れば、桜田の雪を紅に染めて、井伊が浪士に殺される。斬りつ斬られつした両人も、死は一切の恩怨《おんえん》を消してしまって谷|一重《ひとえ》のさし向い、安らかに眠っている。今日の我らが人情の眼から見れば、松陰はもとより醇乎《じゅんこ》として醇なる志士の典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛骨《ごうこつ》の好男児、朝に立ち野に分れて斬るの殺すのと騒いだ彼らも、五十年後の今日から歴史の背景に照らして見れば、畢竟《ひっきょう》今日の日本を造《つく》り出さんがために、反対の方向から相槌《あいづち》を打ったに過ぎぬ。彼らは各々その位置に立ち自信に立って、するだけの事を存分にして土に入り、余沢を明治の今日に享《う》くる百姓らは、さりげなくその墓の近所で悠々と麦のサクを切っている。
 諸君、明治に生れた我々は五六十年前の窮屈千万な社会を知らぬ。この小さな日本を六十幾つに劃《しき》って、ちょっと隣へ往くにも関所があり、税関があり、人間と人間の間には階級があり格式があり分限《ぶんげん》があり、法度《はっと》でしばって、習慣で固めて、いやしくも新しいものは皆禁制、新しい事をするものは皆|謀叛人《むほんにん》であった時代を想像して御覧なさい。実にたまったものではないではないか。幸《さいわい》に世界を流るる一の大潮流は、暫く鎖《とざ》した日本の水門を乗り越え潜《くぐ》り脱《ぬ》けて滔々《とうとう》と我《わが》日本に流れ入って、維新の革命は一挙に六十藩を掃蕩し日本を挙げて統一国家とした。その時の快豁《かいかつ》な気もちは、何ものを以《もっ》てするも比すべきものがなかった。諸君、解脱《げだつ》は苦痛である。しかして最大愉快である。人間が懺悔して赤裸々《せきらら》として立つ時、社会が旧習をかなぐり落して天地間に素裸《すっぱだか》で立つ時、その雄大光明《ゆうだいこうみょう》な心地は実に何ともいえぬのである。明治初年の日本は実にこの初々《ういうい》しい解脱の時代で、着ぶくれていた着物を一枚|剥《は》ねぬぎ、二枚剥ねぬぎ、しだいに裸になって行く明治初年の日本の意気は実に凄《すさ》まじいもので、五ヶ条の誓文《せいもん》が天から下る、藩主が封土を投げ出す、武士が両刀を投出す、えた[#「えた」に傍点]が平民になる、自由平等革新の空気は磅※[#「石+(蒲/寸)」、第3水準1−89−18]《ほうはく》として、その空気に蒸された。日本はまるで筍《たけのこ》のように一夜の中にずんずん伸びて行く。インスピレーションの高調に達したといおうか、むしろ狂気といおうか、――狂気でも宜《よ》い――狂気の快は不狂者の知る能わざるところである。誰がそのような気運を作ったか。世界を流るる人情の大潮流である。誰がその潮流を導いたか。とりもなおさず我先覚の諸士志士である。いわゆる(二字不明)多《おおし》で、新思想を導いた蘭学者《らんがくしゃ》にせよ、局面打破を事とした勤王《きんのう》攘夷《じょうい》の処士にせよ、時の権力からいえば謀叛人であった。彼らが千荊万棘《せんけいばんきょく》を蹈《ふま》えた艱難辛苦――中々|一朝一夕《いっちょういっせき》に説き尽せるものではない。明治の今日に生を享《う》くる我らは維新の志士の苦心を十分に酌《く》まねばならぬ。
 僕は世田ヶ谷を通る度《たび》に然《しか》思う。吉田も井伊も白骨になってもはや五十年、彼ら及び無数の犠牲によって与えられた動力は、日本を今日の位置に達せしめた。日本もはや明治となって四十何年、維新の立者《たてもの》多くは墓になり、当年の書生青二才も、福々しい元老もしくは分別臭い中老になった。彼らは老いた。日本も成長した。子供でない、大分|大人《おとな》になった。明治の初年に狂気
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