っさんをもっているね、浪さん」
浪子はにっこり、ちらと武男の顔をながめて
「その上に――」
「エ? 何です?」驚き顔に武男はわざと目をみはりつ。
「存じません、ほほほほほ」さと顔あからめ、うつぶきて指環《ゆびわ》をひねる。
「いやこれは大変、浪さんはいつそんなにお世辞が上手《じょうず》になったのかい。これでは襟《えり》どめぐらいは廉《やす》いもんだ。はははは」
火鉢の上にさしかざしたる掌《てのひら》にぽうっと薔薇色《ばらいろ》になりし頬を押えつ。少し吐息つきて、
「本当に――永《なが》い間|母《おっか》様も――どんなにおさびしくッていらっしゃいましてしょう。またすぐ勤務《おつとめ》にいらっしゃると思うと、日が早くたってしようがありませんわ」
「始終|内《うち》にいようもんなら、それこそ三日目には、あなた、ちっと運動にでも出ていらっしゃいませんか、だろう」
「まあ、あんな言《こと》を――も一杯《ひとつ》あげましょうか」
くみて差し出す紅茶を一口飲みて、葉巻の灰をほとほと火鉢の縁にはたきつ、快くあたりを見回して、
「半年の余《よ》もハンモックに揺られて、家《うち》に帰ると、十畳敷きがもったいないほど広くて何から何まで結構ずくめ、まるで極楽だね、浪さん。――ああ、何だか二度|蜜月遊《ホニムーン》をするようだ」
げに新婚間もなく相別れて半年ぶりに再び相あえる今日このごろは、ふたたび新婚の当時を繰り返し、正月の一時に来つらん心地《ここち》せらるるなりけり。
語《ことば》はしばし絶えぬ。両人《ふたり》はうっとりとしてただ相笑《あいえ》めるのみ。梅の香《か》は細々《さいさい》として両人《ふたり》が火桶《ひおけ》を擁して相対《あいむか》えるあたりをめぐる。
浪子はふと思い出《い》でたるように顔を上げつ。
「あなたいらっしゃいますの、山木に?」
「山木かい、母《おっか》さんがああおっしゃるからね――行かずばなるまい」
「ほほ、わたくしも行きたいわ」
「行きなさいとも、行こういっしょに」
「ほほほ、よしましょう」
「なぜ?」
「こわいのですもの」
「こわい? 何が?」
「うらまれてますから、ほほほ」
「うらまれる? うらむ? 浪さんを?」
「ほほほ、ありますわ、わたくしをうらんでいなさる方が。おのお豊《とよ》さん……」
「ははは、何を――ばかな。あのばか娘もしようがないね、浪さん。あんな娘でももらい人《て》があるかしらん。ははは」
「母《おっか》さまは、千々岩はあの山木と親しくするから、お豊を妻《さい》にもらったらよかろうッて、そうおっしゃっておいでなさいましたよ」
「千々岩?――千々岩?――あいつ実に困ったやっだ。ずるいやつた知ってたが、まさかあんな嫌疑《けんぎ》を受けようとは思わんかった。いや近ごろの軍人は――僕も軍人だが――実にひどい。ちっとも昔の武士らしい風《ふう》はありやせん、みんな金のためにかかってる。何、僕だって軍人は必ず貧乏しなけりゃならんというのじゃない。冗費を節して、恒《つね》の産を積んで、まさかの時節《とき》に内顧の患《うれい》のないようにするのは、そらあ当然さ。ねエ浪さん。しかし身をもって国家の干城ともなろうという者がさ、内職に高利を貸したり、あわれむべき兵の衣食をかじったり、御用商人と結託して不義の財をむさぼったりするのは実に用捨がならんじゃないか。それに実に不快なは、あの賭博《とばく》だね。僕の同僚などもこそこそやってるやつがあるが、実に不愉快でたまらん。今のやつらは上にへつらって下からむさぼることばかり知っとる」
今そこに当の敵のあるらんように息巻き荒く攻め立つるまだ無経験の海軍少尉を、身にしみて聞き惚《ほ》るる浪子は勇々《ゆゆ》しと誇りて、早く海軍大臣かないし軍令部長にして海軍部内の風《ふう》を一新したしと思えるなり。
「本当にそうでございましょうねエ。あの、何だかよくは存じませんが、阿爺《ちち》がね、大臣をしていましたころも、いろいろな頼み事をしていろいろ物を持って来ますの。阿爺《ちち》はそんな事は大禁物《だいきんもつ》ですから、できる事は頼まれなくてもできる、できない事は頼んでもできないと申して、はねつけてもはねつけてもやはりいろいろ名をつけて持ち込んで来ましたわ。で、阿爺《ちち》が戯談《じょうだん》に、これではたれでも役人になりたがるはずだって笑っていましたよ」
「そうだろう、陸軍も海軍も同じ事だ。金の世の中だね、浪さん――やあもう十時か」おりからりんりんとうつ柱時計を見かえりつ。
「本当に時間《とき》が早くたつこと!」
二の一
芝桜川町なる山木兵造が邸《やしき》は、すぐれて広しというにあらねど、町はずれより西久保《にしのくぼ》の丘の一部を取り込めて、庭には水をたたえ、石を据え、高きに道し、低きに橋して、楓《かえで》桜松竹などおもしろく植え散らし、ここに石燈籠《いしどうろう》あれば、かしこに稲荷《いなり》の祠《ほこら》あり、またその奥に思いがけなき四阿《あずまや》あるなど、この門内にこの庭はと驚かるるも、山木が不義に得て不義に築きし万金の蜃気楼《しんきろう》なりけり。
時はすでに午後四時過ぎ、夕烏《ゆうがらす》の声|遠近《おちこち》に聞こゆるころ、座敷の騒ぎを背《うしろ》にして日影薄き築山道《つきやまみち》を庭下駄《にわげた》を踏みにじりつつ上り行く羽織袴《はおりはかま》の男あり。こは武男なり。母の言《ことば》黙止《もだ》し難くて、今日山木の宴に臨みつれど、見も知らぬ相客と並びて、好まぬ巵《さかずき》挙《あ》ぐることのおもしろからず。さまざまの余興の果ては、いかがわしき白拍子《しらびょうし》の手踊りとなり、一座の無礼講となりて、いまいましきこと限りもなければ、疾《と》くにも辞し去らんと思いたれど、山木がしきりに引き留むるが上に、必ず逢《あ》わんと思える千々岩の宴たけなわなるまで足を運ばざりければ、やむなく留《とど》まりつ、ひそかに座を立ちて、熱せる耳を冷ややかなる夕風に吹かせつつ、人なき方《かた》をたどりしなり。
武男が舅《しゅうと》中将より千々岩に関する注意を受けて帰りし両三日|後《のち》、鰐皮《わにかわ》の手かばんさげし見も知らぬ男突然川島家に尋ね来たり、一通の証書を示して、思いがけなき三千円の返金を促しつ。証書面の借り主は名前も筆跡もまさしく千々岩安彦、保証人の名前は顕然川島武男と署しありて、そのうえ歴々と実印まで押してあらんとは。先方の口上によれば、契約期限すでに過ぎつるを、本人はさらに義務を果たさず、しかも突然いずれへか寓《ぐう》を移して、役所に行けばこの両三日職務上他行したりとかにて、さらに面会を得ざれば、ぜひなくこなたへ推参したる次第なりという。証書はまさしき手続きを踏みたるもの、さらに取り出《いだ》したる往復の書面を見るに、違《まご》う方《かた》なき千々岩が筆跡なり。事の意外に驚きたる武男は、子細をただすに、母はもとより執事の田崎も、さる相談にあずかりし覚えなく、印形《いんぎょう》を貸したる覚えさらになしという。かのうわさにこの事実思いあわして、武男は七分事の様子を推しつ。あたかもその日千々岩は手紙を寄せて、明日《あす》山木の宴会に会いたしといい越したり。
その顔だに見ば、問うべき事を問い、言うべき事を言いて早帰らんと思いし千々岩は来たらず、しきりに波立つ胸の不平を葉巻の煙《けぶり》に吐きもて、武男は崖道《がけみち》を上り、明竹《みんちく》の小藪《こやぶ》を回り、常春藤《ふゆつた》の陰に立つ四阿《あずまや》を見て、しばし腰をおろせる時、横手のわき道に駒下駄《こまげた》の音して、はたと豊子《とよこ》と顔見合わせつ。見れば高島田、松竹梅の裾《すそ》模様ある藤色縮緬《ふじいろちりめん》の三|枚襲《まいがさね》、きらびやかなる服装せるほどますます隙《すき》のあらわれて、笑止とも自らは思わぬなるべし。その細き目をばいとど細うして、
「ここにいらっしたわ」
三十サンチ巨砲の的には立つとも、思いがけなき敵の襲来に冷やりとせし武男は、渋面作りてそこそこに兵を収めて逃げんとするを、あわてて追っかけ
「あなた」
「何です?」
「おとっさんが御案内して庭をお見せ申せってそう言いますから」
「案内? 案内はいらんです」
「だって」
「僕は一人《ひとり》で歩く方が勝手だ」
これほど手強く打ち払えばいかなる強敵《ごうてき》も退散すべしと思いきや、なお懲りずまに追いすがりて
「そうお逃げなさらんでもいいわ」
武男はひたと当惑の眉《まゆ》をひそめぬ。そも武男とお豊の間は、その昔父が某県を知れりし時、お豊の父山木もその管下にありて常に出入したれば、子供もおりおり互いに顔合わせしが、まだ十一二の武男は常にお豊を打ちたたき泣かしては笑いしを、お豊は泣きつつなお武男にまつわりつ。年移り所変わり人|長《た》けて、武男がすでに新夫人を迎えける今日までも、お豊はなお当年の乱暴なる坊ちゃま、今は川島男爵と名乗る若者に対してはかなき恋を思えるなり。粗暴なる海軍士官も、それとうすうす知らざるにあらねば、まれに山木に往来する時もなるべく危うきに近よらざる方針を執りけるに、今日はおぞくも伏兵の計《はかりごと》に陥れるを、またいかんともするあたわざりき。
「逃げる? 僕は何も逃げる必要はない。行きたい方に行くのだ」
「あなた、それはあんまりだわ」
おかしくもあり、ばからしくもあり、迷惑にもあり、腹も立ちし武男行かんとしては引きとめられ、逃《のが》れんとしてはまつわられ、あわれ見る人もなき庭のすみに新日高川《しんひたかがわ》の一幕を出《いだ》せしが、ふと思いつく由ありて、
「千々岩はまだ来ないか、お豊さんちょっと見て来てくれたまえ」
「千々岩さんは日暮れでなけりゃ来ないわ」
「千々岩は時々来るのかね」
「千々岩さんは昨日《きのう》も来たわ、おそくまで奥の小座敷でおとっさんと何か話していたわ」
「うん、そうか――しかしもう来たかもしれん、ちょっと見て来てくれないかね」
「わたしいやよ」
「なぜ!」
「だって、あなた逃げて行くでしょう、なんぼわたしがいやだって、浪子さんが美しいって、そんなに人を追いやるものじゃなくってよ」
「油断せば雨にもならんずる空模様に、百計つきたる武男はただ大踏歩《だいとうほ》して逃げんとする時、
「お嬢様、お嬢様」
と婢《おんな》の呼び来たりて、お豊を抑留しつ。このひまにと武男はつと藪《やぶ》を回りて、二三十歩足早に落ち延び、ほっと息つき
「困った女《やつ》だ」
とつぶやきながら、再度の来襲の恐れなき屈強の要害――座敷の方《かた》へ行きぬ。
二の二
日は入り、客は去りて、昼の騒ぎはただ台所の方《かた》に残れる時、羽織|袴《はかま》は脱ぎすてて、煙草《たばこ》盆をさげながら、おぼつかなき足踏みしめて、廊下伝いに奥まりたる小座敷に入り来し主人の山木、赤|禿《は》げの前額《ひたえ》の湯げも立ち上らんとするを、いとどランプの光に輝かしつつ、崩《くず》るるようにすわり、
「若|旦那《だんな》も、千々岩君《ちぢわさん》も、お待たせ申して失敬でがした。はははは、今日はおかげで非常の盛会……いや若旦那はお弱い、失敬ながらお弱い、軍人に似合いませんよ。御大人《ごたいじん》なんざそれは大したものでしたよ。年は寄っても、山木兵造――なあに、一升やそこらははははは大丈夫ですて」
千々岩は黒水晶の目を山木に注ぎつ。
「大分《だいぶ》ご元気ですな。山木君、もうかるでしょう?」
「もうかるですとも、はははは――いやもうかるといえば」と山木は灰だらけにせし煙管《きせる》をようやく吸いつけ、一服吸いて「何です、その、今度あの○○○○が売り物に出るそうで、実は内々様子を探って見たが、先方もいろいろ困っている際だから、案外安く話が付きそうですて。事業の方は、大有望さ。追い追い内地雑居と来る
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