ようじゃったが、どう書《け》えて来申《きも》した?」
 浪子は枕べに置きし一通の手紙のなかぬき出《いだ》して姑に渡しつつ、
 「この日曜にはきっといらッしゃいますそうでございますよ」
 「そうかな」ずうと目を通してくるくるとまき収め、「転地養生もねもんじゃ。この寒にエットからだ動《いご》かして見なさい、それこそ無《な》か病気も出て来ます。風邪《かぜ》はじいと寝ておると、なおるもんじゃ。武は年が若かでな。医師《いしゃ》をかえるの、やれ転地をすッのと騒ぎ申《も》す。わたしたちが若か時分な、腹が痛かてて寝る事《こた》なし、産あがりだて十日と寝た事アあいません。世間が開けて来《く》っと皆が弱《よお》うなり申すでな。はははは。武にそう書《け》えてやったもんな、母《おっか》さんがおるで心配しなはんな、ての、ははははは、どれ」
 口には笑えど、目はいささか懌《よろこ》ばざる色を帯びて、出《い》で行く姑の後ろ影、
 「御免遊ばせ」
 と起き直りつつ見送りて、浪子はかすかに吐息を漏らしぬ。
 親が子をねたむということ、あるべしとは思われねど、浪子は良人《おっと》の帰りし以来、一種異なる関係の姑との間にわき出《い》でたるを覚えつ。遠洋航海より帰り来て、浪子のやせしを見たる武男が、粗豪なる男心にも留守の心づかいをくみて、いよいよいたわるをば、いささか苦々《にがにが》しく姑の思える様子は、怜悧《さと》き浪子の目をのがれず。時にはかの孝――姑のいわゆる――とこの愛の道と、一時に踏み難く岐《わか》るることあるを、浪子はひそかに思い悩めるなり。
 「奥様、加藤様のお嬢様がおいで遊ばしましてございます」
 と呼ぶ婢《おんな》の声に、浪子はぱっちり目を開きつ。入り来る客《ひと》を見るより喜色はたちまち眉間《びかん》に上りぬ。
 「あ、お千鶴《ちず》さん、よく来たのね」

     三の二

 「今日はどんな?」
 藤色《ふじいろ》縮緬《ちりめん》のおこそ頭巾《ずきん》とともに信玄袋をわきへ押しやり、浪子の枕べ近く立ち寄るは島田の十七八、紺地|斜綾《はすあや》の吾妻《あずま》コートにすらりとした姿を包んで、三日月眉《みかづきまゆ》におやかに、凛々《りり》しき黒目がちの、見るからさえざえとした娘。浪子が伯母加藤子爵夫人の長女、千鶴子というはこの娘《こ》なり。浪子と千鶴子は一歳《ひとつ》違いの従姉妹《いとこ》同士。幼稚園に通うころより実の同胞《きょうだい》も及ばぬほど睦《むつ》み合いて、浪子が妹の駒子《こまこ》をして「姉《ねえ》さんはお千鶴さんとばかり仲よくするからわたしいやだわ!」といわしめしこともありき。されば浪子が川島家に嫁《とつ》ぎて来し後も、他の学友らはおのずから足を遠くせしに引きかえ、千鶴子はかえってその家の近くなれるを喜びつつ、しばしば足を運べるなり。武男が遠洋航海の留守の間心さびしく憂《う》き事多かる浪子を慰めしは、燃ゆるがごとき武男の書状を除きては、千鶴子の訪問ぞその重《おも》なるものなりける。
 浪子はほほえみて、
 「今日はよっぽどよい方だけども、まだ頭《かみ》が重くて、時々せきが出て困るの」
 「そう?――寒いのね」うやうやしく座ぶとんをすすむる婢《おんな》をちょっと顧みて、浪子のそば近くすわりつ。桐胴《きりどう》の火鉢《ひばち》に指環《ゆびわ》の宝石きらきらと輝く手をかざしつつ、桜色ににおえる頬《ほお》を押《おさ》う。
 「伯母様も、伯父様も、おかわりないの?」
 「あ、よろしくッてね。あまり寒いからどうかしらッてひどく心配していなさるの、時候が時候だから、少しいい方だッたら逗子《ずし》にでも転地療養しなすったらッてね、昨夕《ゆうべ》も母《おっか》さんとそう話したのですよ」
 「そう? 横須賀《よこすか》からもちょうどそう言って来てね……」
 「兄さんから? そう? それじゃ早く転地するがいいわ」
 「でももうそのうちよくなるでしょうから」
 「だッて、このごろの感冒《かぜ》は本当に用心しないといけないわ」
 おりから小間使いの紅茶を持ち来たりて千鶴子にすすめつ。
 「兼《かね》や? 母《おっか》さんは? お客? そう、どなた? 国の方《かた》なの?――お千鶴さん、今日はゆっくりしていいのでしょう。兼や、お千鶴さんに何かごちそうしておあげな」
 「ほほほほ、お百度参りするのだもの、ごちそうばかりしちゃたまらないわ。お待ちなさいよ」言いつつ服紗《ふくさ》包みの小重を取り出し「こちらの伯母さんはお萩《はぎ》がおすきだッたのね、少しだけども、――お客様ならあとにしましょう」
 「まあ、ありがとう。本当に……ありがとうよ」
 千鶴子はさらに紅蜜柑《べにみかん》を取り出しつつ「きれいでしょう。これはわたしのお土産《みやげ》よ。でもすっぱくていけないわ」
 「まあきれい、一ツむいてちょうだいな」
 千鶴子がむいて渡すを、さもうまげに吸いて、額《ひたえ》にこぼるる髪をかき上げ、かき上げつ。
 「うるさいでしょう。ざっと結《い》ってた方がよかないの? ね、ちょっと結いましょう。――そのままでいいわ」
 勝手知ったる次の間の鏡台の櫛《くし》取り出《いだ》して、千鶴子は手柔らかにすき始めぬ。
 「そうそう、昨日の同窓会――案内状《しらせ》が来たでしょう――はおもしろかってよ。みんながよろしくッて、ね。ほほほほ、学校を下がってからまだやっと一年しかならないのに、もう三一はお嫁だわ。それはおかしいの、大久保《おおくぼ》さんも本多《ほんだ》さんも北小路《きたこうじ》さんもみんな丸髷《まるまげ》に結《い》ってね、変に奥様じみているからおかしいわ。――痛かないの?―ほほほほ、どんな話かと思ったら、みんな自分の吹聴《ふいちょう》ですわ。そうそう、それから親子別居論が始まってね、北小路さんは自分がちっとも家政ができないに姑《おっかさん》がたいへんやさしくするものだから同居に限るっていうし、大久保さんはまた姑《おっかさん》がやかましやだから別居論の勇将だし、それはおかしいの。それからね、わたしがまぜッかえしてやったら、お千鶴さんはまだ門外漢――漢がおかしいわ――だから話せないというのですよ。――すこしつまり過ぎはしないの?」
 「イイエ。――それはおもしろかったでしょう。ほほほほ、みんな自己《じぶん》から割り出すのね。どうせ局々《ところところ》で違うのだから、一概には言えないのでしょうよ。ねエ、お千鶴さん。伯母様もいつかそうおっしゃったでしょう。若い者ばかりじゃわがままになるッて、本当にそうですよ、年寄りを疎略に思っちゃ済まないのね」
 父中将の教えを受くるが上に、おのずから家政に趣味をもてる浪子は、実家《さと》にありけるころより継母の政《まつりごと》を傍観しつつ、ひそかに自家の見《けん》をいだきて、自ら一家の女主《あるじ》になりたらん日には、みごと家を斉《ととの》えんものと思えるは、一日にあらざりき。されど川島家に来たり嫁ぎて、万機一に摂政太后の手にありて、身はその位《くらい》ありてその権なき太子妃の位置にあるを見るに及びて、しばしおのれを収めて姑の支配の下《もと》に立ちつ。親子の間に立ち迷いて、思うさま良人《おっと》にかしずくことのままならぬをひそかにかこてるおりおりは、かつてわが国風《こくふう》に適《あ》わずと思いし継母が得意の親子《しんし》別居論のあるいは真理にあらざるやを疑うこともありしが、これがためにかえって浪子は初心を破らじとひそかに心に帯《おび》せるなり。
 継母の下《もと》に十年《ととせ》を送り、今は姑のそばにやがて一年の経験を積める従姉《いとこ》の底意を、ことごとくはくみかねし千鶴子、三つに組みたる髪の端を白きリボンもて結わえつつ、浪子の顔さしのぞきて、声を低め、「このごろでも御機嫌《ごきげん》がわるくッて?」
 「でも、病気してからよくしてくださるのですよ。でもね、……武男《うち》にいろいろするのが、おかあさまのお気に入らないには困るわ! それで、いつでも此家《ここ》ではおかあさまが女皇陛下《クイーン》だからおれよりもたれよりもおかあさまを一番大事にするンだッて、しょっちゅう言って聞かされるのですわ……あ、もうこんな話はよしましょうね。おおいい気持ち、ありがとう。頭が軽くなったわ」
 言いつつ三つ組みにせし髪をなで試みつ。さすがに疲れを覚えつらん、浪子は目を閉じぬ。
 櫛《くし》をしまいて、紙に手をふきふき、鏡台の前に立ちし千鶴子は、小さき箱の蓋《ふた》を開きて、掌《たなそこ》に載せつつ、
 「何度見てもこの襟止《びん》はきれいだわ。本当に兄《にい》さんはよくなさるのねエ。内《うち》の――兄さん(これは千鶴子の婿養子と定まれる俊次《しゅんじ》といいて、目下外務省に奉職せる男)なんか、外交官の妻になるには語学が達者でなくちゃいけないッて、仏語《フレンチ》を勉強するがいいの、ドイツ語がぜひ必要のッて、責めてばかりいるから困るわ」
 「ほほほほ、お千鶴さんが丸髷《まるまげ》に結《い》ったのを早く見たいわ――島田も惜しいけれど」
 「まあいや!」美しき眉《まゆ》はひそめど、裏切る微笑《えみ》は薔薇《ばら》の莟《つぼ》めるごとき唇に流れぬ。
 「あ、ほんに、萩原《はぎわら》さんね、そらわたしたちより一年|前《さき》に卒業した――」
 「あの松平《まつだいら》さんに嫁《い》らっした方でしょう」
 「は、あの方がね、昨日《きのう》離縁になったンですッて」
 「離縁に? どうしたの?」
 「それがね、舅《おとうさん》姑《おかあさん》の気には入ってたけども、松平さんがきらってね」
 「子供がありはしなかったの」
 「一人《ひとり》あったわ。でもね、松平さんがきらって、このごろは妾《めかけ》を置いたり、囲い者をしたり、乱暴ばかりするからね、萩原さんのおとうさんがひどく怒《おこ》つてね、そんな薄情な者には、娘はやって置かれぬてね、とうとう引き取ってしまったんですッて」
 「まあ、かあいそうね。――どうしてきらうのでしょう、本当にひどいわ」
 「腹が立つのねエ。――逆さまだとまだいいのだけど、舅姑《しゅうと》の気に入っても良人《おっと》にきらわれてあんな事になっては本当につらいでしょうねエ」
 浪子は吐息しつ。
 「同じ学校に出て同じ教場で同じ本を読んでも、みんなちりぢりになって、どうなるかわからないものねエ。――お千鶴さん、いつまでも仲よく、さきざき力になりましょうねエ」
 「うれしいわ!」
 二人《ふたり》の手はおのずから相結びつ。ややありて浪子はほほえみ、
 「こんなに寝ていると、ね、いろいろな事を考えるの。ほほほほ、笑っちゃいやよ。これから何年かたッてね、どこか外国と戦争が起こるでしょう、日本が勝つでしょう、そうするとね、お千鶴さん宅《とこ》の兄さんが外務大臣で、先方へ乗り込んで講和の談判をなさるでしょう、それから武男《うち》が艦隊の司令長官で、何十|艘《そう》という軍艦を向こうの港にならべてね……」
 「それから赤坂の叔父さんが軍司令官で、宅《うち》のおとうさんが貴族院で何億万円の軍事費を議決さして……」
 「そうするとわたしはお千鶴さんと赤十字の旗でもたてて出かけるわ」
 「でもからだが弱くちゃできないわ。ほほほほ」
 「おほほほほ」
 笑う下より浪子はたちまちせきを発して、右の胸をおさえつ。
 「あまり話したからいけないのでしょう。胸が痛むの?」
 「時々せきするとね、ここに響いてしようがないの」
 言いつつ浪子の目はたちまちすうと薄れ行く障子の日影を打ちながめつ。

     四の一

 山木が奥の小座敷に、あくまで武男にはずかしめられて、燃ゆるがごとき憤嫉《ふんしつ》を胸に畳《たた》みつつわが寓《ぐう》に帰りしその夜《よ》より僅々《きんきん》五日を経て、千々岩《ちぢわ》は突然参謀本部よりして第一師団の某連隊付きに移されつ。
 人の一生には、なす事なす事皆図星をはずれて、さながら皇天ことにわれ一|人《にん》をえらんで折檻《せっかん》また折檻の笞
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