ざと召使いの者を例の大音声《だいおんじょう》にしかり飛ばさるるその声は、十年がほども継母の雄弁冷語を聞き尽くしたる耳にも今さらのように聞こえぬ。それも初めしばしがほどにて、後には癇癪《かんしゃく》の鋒《ほこさき》直接に吾身《われ》に向かうようになりつ。幾が去りし後は、たれ慰むる者もなく、時々はどうやらまた昔の日陰に立ち戻りし心地《ここち》もせしが、部屋《へや》に帰って机の上の銀の写真掛けにかかったたくましき海軍士官の面影《おもかげ》を見ては、うれしさ恋しさなつかしさのむらむらと込み上げて、そっと手にとり、食い入るようにながめつめ、キッスし、頬《ほお》ずりして、今そこにその人のいるように「早く帰ッてちょうだい」とささやきつ。良人《おっと》のためにはいかなる辛抱も楽しと思いて、われを捨てて姑に事《つか》えぬ。
七の一
[#これより手紙文、1字下げ]
流汗を揮《ふる》いつつ華氏九十九度の香港《ほんこん》より申し上げ候《そろ》。佐世保《させほ》抜錨《ばつびょう》までは先便すでに申し上げ置きたる通りに有之《これあり》候。さて佐世保出帆後は連日の快晴にて暑気|燬《や》くがごとく、さ
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