帰って来ます。それまではどうかだれにも今夜の話は黙っていてください。どんな事があっても、私《わたくし》が帰って来るまでは、待っていてください」
*
あくる日武男はさらに母の保証をとり、さらに主治医を訪《と》いて、ねんごろに浪子の上を託し、午後の汽車にて逗子《ずし》におりつ。
汽車を下《くだ》れば、日落ちて五日の月薄紫の空にかかりぬ。野川の橋を渡りて、一路の沙《すな》はほのぐらき松の林に入りつ。林をうがちて、桔槹《はねつるべ》の黒く夕空にそびゆるを望める時、思いがけなき爪音《つまおと》聞こゆ。「ああ琴をひいている……」と思えば心《しん》の臓をむしらるる心地《ここち》して、武男はしばし門外に涙《なんだ》をぬぐいぬ。今日は常よりも快かりしとて、浪子は良人《おっと》を待ちがてに絶えて久しき琴取り出《い》でて奏《かな》でしなりき。
顔色の常ならぬをいぶかられて、武男はただ夜ふかししゆえとのみ言い紛らしつ。約あれば待ちて居し晩餐《ばんさん》の卓《つくえ》に、浪子は良人《おっと》と対《むか》いしが、二人《ふたり》ともに食すすまず。浪子は心細さをさびしき笑《えみ》に紛らして、手ずか
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