より足を抜きつつ、かの山木に向かい近きに起こるべき活劇の予告《まえぶれ》をなして、あらかじめ祝杯をあげけるなり。

     六の一

 五月|初旬《はじめ》、武男はその乗り組める艦《ふね》のまさに呉《くれ》より佐世保《させほ》におもむき、それより函館《はこだて》付近に行なわるべき連合艦隊の演習に列せんため引きかえして北航するはずなれば、かれこれ四五十日がほどは帰省の機会《おり》を得ざるべく、しばしの告別《いとま》かたがた、一夜《あるよ》帰京して母の機嫌《きげん》を伺いたり。
 近ごろはとかく奥歯に物のはさまりしように、いつ帰りても機嫌よからぬ母の、今夜《こよい》は珍しくにこにこ顔を見せて、風呂《ふろ》を焚《た》かせ、武男が好物の薩摩汁《さつまじる》など自ら手をおろさぬばかり肝いりてすすめつ。元来あまり細かき事には気をとめぬ武男も、ようすのいつになくあらたまれるを不思議――とは思いしが、何歳《いくつ》になってもかあいがられてうれしからぬ子はなきに、父に別れてよりひとしお母なつかしき武男、母の機嫌の直れるに心うれしく、快く夜食の箸《はし》をとりしあとは、湯に入りてはらはら降り出せし雨の音
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