愉快という愉快は世に数あれど、つつがなく長の旅より帰りて、旅衣を平生服《ふだんぎ》の着心地《きごこち》よきにかえ、窓外にほゆる夜あらしの音を聞きつつ居間の暖炉に足さしのべて、聞きなれし時計の軋々《きつきつ》を聞くは、まったき愉快の一なるべし。いわんやまた阿母《あぼ》老健にして、新妻のさらに愛《いと》しきあるをや。葉巻の香《かんば》しきを吸い、陶然として身を安楽椅子の安きに託したる武男は、今まさにこの楽しみを享《う》けけるなり。
 ただ一つの翳《かげ》は、さきに母の口より聞き、今来訪名刺のうちに見たる、千々岩安彦の名なり。今日武男は千々岩につきて忌まわしき事を聞きぬ。旧臘某日の事とか、千々岩が勤むる参謀本部に千々岩にあてて一通のはがきを寄せたる者あり、折節《おりふし》千々岩は不在なりしを同僚の某《なにがし》何心なく見るに、高利貸の名高き何某《なにがし》の貸し金督促状にして、しかのみならずその金額要件は特に朱書してありしという。ただそれのみならず、参謀本部の機密おりおり思いがけなき方角に漏れて、投機商人の利を博することあり。なおその上に、千々岩の姿をあるまじき相場の市《いち》に見たる者あり。とにかく種々|嫌疑《けんぎ》の雲は千々岩の上におおいかかりてあれば、この上とても千々岩には心して、かつ自ら戒飭《かいちょく》するよう忠告せよと、参謀本部に長たる某将軍とは爾汝《じじょ》の間なる舅《しゅうと》中将の話なりき。
 「困った男だ」
 かくひとりごちて、武男はまた千々岩の名刺を打ちながめぬ。しかも今の武男は長く不快に縛らるるあたわざるなり。何も直接にあいて問いただしたる上と、思い定めて、心はまた翻然として今の楽しきに返れる時、服《きもの》をあらためし浪子は手ずから紅茶を入れてにこやかに入り来たりぬ。
 「おお紅茶、これはありがたい」椅子を離れて火鉢《ひばち》のそばにあぐらかきつつ、
 「母《おっか》さんは?」
 「今おやすみ遊ばしました」紅茶の熱きをすすめつつ、なお紅《くれない》なる良人《おっと》の面《かお》をながめ「あなた、お頭痛が遊ばすの? お酒なんぞ、召し上がれないのに、あんなに母がおしいするものですから」
 「なあに――今日は実に愉快だったね、浪さん。阿舅《おとっさん》のお話がおもしろいものだから、きらいな酒までつい過ごしてしまった。はははは、本当に浪さんはいいおとっさんをもっているね、浪さん」
 浪子はにっこり、ちらと武男の顔をながめて
 「その上に――」
 「エ? 何です?」驚き顔に武男はわざと目をみはりつ。
 「存じません、ほほほほほ」さと顔あからめ、うつぶきて指環《ゆびわ》をひねる。
 「いやこれは大変、浪さんはいつそんなにお世辞が上手《じょうず》になったのかい。これでは襟《えり》どめぐらいは廉《やす》いもんだ。はははは」
 火鉢の上にさしかざしたる掌《てのひら》にぽうっと薔薇色《ばらいろ》になりし頬を押えつ。少し吐息つきて、
 「本当に――永《なが》い間|母《おっか》様も――どんなにおさびしくッていらっしゃいましてしょう。またすぐ勤務《おつとめ》にいらっしゃると思うと、日が早くたってしようがありませんわ」
 「始終|内《うち》にいようもんなら、それこそ三日目には、あなた、ちっと運動にでも出ていらっしゃいませんか、だろう」
 「まあ、あんな言《こと》を――も一杯《ひとつ》あげましょうか」
 くみて差し出す紅茶を一口飲みて、葉巻の灰をほとほと火鉢の縁にはたきつ、快くあたりを見回して、
 「半年の余《よ》もハンモックに揺られて、家《うち》に帰ると、十畳敷きがもったいないほど広くて何から何まで結構ずくめ、まるで極楽だね、浪さん。――ああ、何だか二度|蜜月遊《ホニムーン》をするようだ」
 げに新婚間もなく相別れて半年ぶりに再び相あえる今日このごろは、ふたたび新婚の当時を繰り返し、正月の一時に来つらん心地《ここち》せらるるなりけり。
 語《ことば》はしばし絶えぬ。両人《ふたり》はうっとりとしてただ相笑《あいえ》めるのみ。梅の香《か》は細々《さいさい》として両人《ふたり》が火桶《ひおけ》を擁して相対《あいむか》えるあたりをめぐる。
 浪子はふと思い出《い》でたるように顔を上げつ。
 「あなたいらっしゃいますの、山木に?」
 「山木かい、母《おっか》さんがああおっしゃるからね――行かずばなるまい」
 「ほほ、わたくしも行きたいわ」
 「行きなさいとも、行こういっしょに」
 「ほほほ、よしましょう」
 「なぜ?」
 「こわいのですもの」
 「こわい? 何が?」
 「うらまれてますから、ほほほ」
 「うらまれる? うらむ? 浪さんを?」
 「ほほほ、ありますわ、わたくしをうらんでいなさる方が。おのお豊《とよ》さん……」
 「ははは、何を
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