――ばかな。あのばか娘もしようがないね、浪さん。あんな娘でももらい人《て》があるかしらん。ははは」
 「母《おっか》さまは、千々岩はあの山木と親しくするから、お豊を妻《さい》にもらったらよかろうッて、そうおっしゃっておいでなさいましたよ」
 「千々岩?――千々岩?――あいつ実に困ったやっだ。ずるいやつた知ってたが、まさかあんな嫌疑《けんぎ》を受けようとは思わんかった。いや近ごろの軍人は――僕も軍人だが――実にひどい。ちっとも昔の武士らしい風《ふう》はありやせん、みんな金のためにかかってる。何、僕だって軍人は必ず貧乏しなけりゃならんというのじゃない。冗費を節して、恒《つね》の産を積んで、まさかの時節《とき》に内顧の患《うれい》のないようにするのは、そらあ当然さ。ねエ浪さん。しかし身をもって国家の干城ともなろうという者がさ、内職に高利を貸したり、あわれむべき兵の衣食をかじったり、御用商人と結託して不義の財をむさぼったりするのは実に用捨がならんじゃないか。それに実に不快なは、あの賭博《とばく》だね。僕の同僚などもこそこそやってるやつがあるが、実に不愉快でたまらん。今のやつらは上にへつらって下からむさぼることばかり知っとる」
 今そこに当の敵のあるらんように息巻き荒く攻め立つるまだ無経験の海軍少尉を、身にしみて聞き惚《ほ》るる浪子は勇々《ゆゆ》しと誇りて、早く海軍大臣かないし軍令部長にして海軍部内の風《ふう》を一新したしと思えるなり。
 「本当にそうでございましょうねエ。あの、何だかよくは存じませんが、阿爺《ちち》がね、大臣をしていましたころも、いろいろな頼み事をしていろいろ物を持って来ますの。阿爺《ちち》はそんな事は大禁物《だいきんもつ》ですから、できる事は頼まれなくてもできる、できない事は頼んでもできないと申して、はねつけてもはねつけてもやはりいろいろ名をつけて持ち込んで来ましたわ。で、阿爺《ちち》が戯談《じょうだん》に、これではたれでも役人になりたがるはずだって笑っていましたよ」
 「そうだろう、陸軍も海軍も同じ事だ。金の世の中だね、浪さん――やあもう十時か」おりからりんりんとうつ柱時計を見かえりつ。
 「本当に時間《とき》が早くたつこと!」

     二の一

 芝桜川町なる山木兵造が邸《やしき》は、すぐれて広しというにあらねど、町はずれより西久保《にしのくぼ》の丘の一部を取り込めて、庭には水をたたえ、石を据え、高きに道し、低きに橋して、楓《かえで》桜松竹などおもしろく植え散らし、ここに石燈籠《いしどうろう》あれば、かしこに稲荷《いなり》の祠《ほこら》あり、またその奥に思いがけなき四阿《あずまや》あるなど、この門内にこの庭はと驚かるるも、山木が不義に得て不義に築きし万金の蜃気楼《しんきろう》なりけり。
 時はすでに午後四時過ぎ、夕烏《ゆうがらす》の声|遠近《おちこち》に聞こゆるころ、座敷の騒ぎを背《うしろ》にして日影薄き築山道《つきやまみち》を庭下駄《にわげた》を踏みにじりつつ上り行く羽織袴《はおりはかま》の男あり。こは武男なり。母の言《ことば》黙止《もだ》し難くて、今日山木の宴に臨みつれど、見も知らぬ相客と並びて、好まぬ巵《さかずき》挙《あ》ぐることのおもしろからず。さまざまの余興の果ては、いかがわしき白拍子《しらびょうし》の手踊りとなり、一座の無礼講となりて、いまいましきこと限りもなければ、疾《と》くにも辞し去らんと思いたれど、山木がしきりに引き留むるが上に、必ず逢《あ》わんと思える千々岩の宴たけなわなるまで足を運ばざりければ、やむなく留《とど》まりつ、ひそかに座を立ちて、熱せる耳を冷ややかなる夕風に吹かせつつ、人なき方《かた》をたどりしなり。
 武男が舅《しゅうと》中将より千々岩に関する注意を受けて帰りし両三日|後《のち》、鰐皮《わにかわ》の手かばんさげし見も知らぬ男突然川島家に尋ね来たり、一通の証書を示して、思いがけなき三千円の返金を促しつ。証書面の借り主は名前も筆跡もまさしく千々岩安彦、保証人の名前は顕然川島武男と署しありて、そのうえ歴々と実印まで押してあらんとは。先方の口上によれば、契約期限すでに過ぎつるを、本人はさらに義務を果たさず、しかも突然いずれへか寓《ぐう》を移して、役所に行けばこの両三日職務上他行したりとかにて、さらに面会を得ざれば、ぜひなくこなたへ推参したる次第なりという。証書はまさしき手続きを踏みたるもの、さらに取り出《いだ》したる往復の書面を見るに、違《まご》う方《かた》なき千々岩が筆跡なり。事の意外に驚きたる武男は、子細をただすに、母はもとより執事の田崎も、さる相談にあずかりし覚えなく、印形《いんぎょう》を貸したる覚えさらになしという。かのうわさにこの事実思いあわして、武男は七分事の様子を推しつ
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