でしたか」
「なぜ? ――そんな事はあいません――なぜかい?」
「いや――少し聞き込んだ事もあるのですから――いずれそのうちあいますから――」
「おおそうじゃ、そいからあの山木が来ての」
「は、あの山木のばかですか」
「あれが来てこの――そうじゃった、十日にごちそうをすっから、是非《ぜっひ》卿《おまえ》に来てくださいというから」
「うるさいやつですな」
「行ってやんなさい。父《おとっ》さんの恩を覚えておっがかあいかじゃなっか」
「でも――」
「まあ、そういわずと行ってやんなさい――どれ、わたしも寝ましょうか」
「じゃ、母《おっか》さん、おやすみなさい」
「ではお母《かあ》様、ちょっと着がえいたしてまいりますから」
若夫婦は打ち連れて、居間へ通りつ。小間使いを相手に、浪子は良人《おっと》の洋服を脱がせ、琉球紬《りゅうきゅうつむぎ》の綿入れ二枚重ねしをふわりと打ちきすれば、武男は無造作に白縮緬《しろちりめん》の兵児帯《へこおび》尻高《しりだか》に引き結び、やおら安楽|椅子《いす》に倚《よ》りぬ。洋服の塵《ちり》を払いて次の間の衣桁《えこう》にかけ、「紅茶を入れるようにしてお置き」と小間使いにいいつけて、浪子は良人の居間に入りつ。
「あなた、お疲れ遊ばしたでしょう」
葉巻の青き煙《けぶり》を吹きつつ、今日到来せし年賀状名刺など見てありし武男はふり仰ぎて、
「浪さんこそくたびれたろう、――おおきれい」
「?」
「美しい花嫁様という事さ」
「まあ、いや――あんな言《こと》を」
さと顔打ちあかめて、ランプの光まぶしげに、目をそらしたる、常には蒼《あお》きまで白き顔色《いろ》の、今ぼうっと桜色ににおいて、艶々《つやつや》とした丸髷《まるまげ》さながら鏡と照りつ。浪に千鳥の裾模様、黒襲《くろがさね》に白茶七糸《しらちゃしゅちん》の丸帯、碧玉《へきぎょく》を刻みし勿忘草《フォルゲットミイノット》の襟《えり》どめ、(このたび武男が米国より持《も》て来たりしなり)四|分《ぶ》の羞《はじ》六|分《ぶ》の笑《えみ》を含みて、嫣然《えんぜん》として燈光《あかり》のうちに立つ姿を、わが妻ながらいみじと武男は思えるなり。
「本当に浪さんがこう着物をかえていると、まだ昨日《きのう》来た花嫁のように思うよ」
「あんな言《こと》を――そんなことをおっしゃると往《い》ってしまいますから」
「ははははもう言わない言わない。そう逃げんでもいいじゃないか」
「ほほほ、ちょっと着がえをいたしてまいりますよ」
一の二
武男は昨年の夏初め、新婚間もなく遠洋航海に出《い》で、秋は帰るべかりしに、桑港《そうこう》に着きける時、器械に修覆を要すべき事の起こりて、それがために帰期を誤り、旧臘《きゅうろう》押しつまりて帰朝しつ。今日正月三日というに、年賀をかねて浪子を伴ない加藤家より浪子の実家《さと》を訪《と》いたるなり。
武男が母は昔|気質《かたぎ》の、どちらかといえば西洋ぎらいの方なれば、寝台《ねだい》に寝《い》ねて匙《さじ》もて食らうこと思いも寄らねど、さすがに若主人のみは幾分か治外の法権を享《う》けて、十畳のその居間は和洋折衷とも言いつべく、畳の上に緑色の絨氈《じゅうたん》を敷き、テーブルに椅子《いす》二三脚、床には唐画《とうが》の山水をかけたれど、※[#「※」は「木へん」+「眉」、第3水準1−85−86、65−16]間《びかん》には亡父|通武《みちたけ》の肖像をかかげ、開かれざる書筺《しょきょう》と洋籍の棚《たな》は片すみに排斥せられて、正面の床の間には父が遺愛の備前兼光《びぜんかねみつ》の一刀を飾り、士官帽と両眼鏡と違い棚に、短剣は床柱にかかりぬ。写真額|数多《あまた》掛けつらねたるうちには、その乗り組める軍艦のもあり、制服したる青年のおおぜいうつりたるは、江田島《えたじま》にありけるころのなるべし。テーブルの上にも二三の写真を飾りたり。両親並びて、五六歳の男児《おのこ》の父の膝に倚《よ》りたるは、武男が幼きころの紀念なり。カビネの一人《ひとり》撮《うつ》しの軍服なるは乃舅《しゅうと》片岡中将なり。主人が年若く粗豪なるに似もやらず、几案《きあん》整然として、すみずみにいたるまで一点の塵《ちり》を留《とど》めず、あまつさえ古銅|瓶《へい》に早咲きの梅一両枝趣深く活《い》けたるは、温《あたた》かき心と細かなる注意と熟練なる手と常にこの室《へや》に往来するを示しぬ。げにその主《ぬし》は銅瓶の下《もと》に梅花の香《かおり》を浴びて、心臓形の銀の写真掛けのうちにほほえめるなり。ランプの光はくまなく室のすみずみまでも照らして、火桶《ひおけ》の炭火は緑の絨氈《じゅうたん》の上に紫がかりし紅《くれない》の焔《ほのお》を吐きぬ。
前へ
次へ
全79ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング