ね、それでこのごろは大層気むずかしいのですと。それにね、幾が姉《ねえ》さんにね、姉さんのお部屋《へや》でね、あの、奥様、こちらの御隠居様はどうしてあんなに御癇癪《ごかんしゃく》が出るのでございましょう、本当に奥様お辛《つろ》うございますねエ、でもお年寄りの事ですから、どうせ永《なが》い事じゃございません、てね、そんなに言いましたとさ。本当にばかですよ、幾はねエ、おかあさま」
 「どこに行ってもいい事はしないよ。困った姥《ばあ》じゃないかねエ」
 「それからねエ、おかあさま、ちょうどその時縁側を老母《おばあさん》が通ってね、すっかり聞いてしまッて、それはそれはひどく怒《おこ》ってね」
 「罰《ばち》だよ!」
 「怒ってね、それで姉さんが心配して、飯田町《いいだまち》の伯母様に相談してね」
 「伯母様に!?」
 「だッて姉さんは、いつでも伯母様にばかり何でも相談するのですもの」
 夫人は苦笑《にがわら》いしつ。
 「それから?」
 「それからね、おとうさまが幾は別荘番にやるからッてね」
 「そう」と額をいとど曇らしながら「それッきりかい?」
 「それから、まだ聞くのでしたけども、ちょうど毅一《きい》さんが来て――」

     六の一

 武男が母は、名をお慶《けい》と言いて今年五十三、時々リュウマチスの起これど、そのほかは無病息災、麹町上《こうじまちかみ》二|番町《ばんちょう》の邸《やしき》より亡夫の眠る品川《しながわ》東海寺《とうかいじ》まで徒歩《かち》の往来容易なりという。体重は十九貫、公侯伯子男爵の女性《にょしょう》を通じて、体格《がら》にかけては関脇《せきわき》は確かとの評あり。しかしその肥大も実は五六年前|前《ぜん》夫|通武《みちたけ》の病没したる後の事にて、その以前はやせぎすの色|蒼《あお》ざめて、病人のようなりしという。されば圧《お》しつけられしゴム球《まり》の手を離されてぶくぶくと膨《ふく》れ上がる類《たぐい》にやという者もありき。
 亡夫は麑藩《げいはん》の軽き城下|士《さむらい》にて、お慶の縁づきて来し時は、太閤《たいこう》様に少しましなる婚礼をなしたりしが、維新の風雲に際会して身を起こし、大久保甲東《おおくぼこうとう》に見込まれて久しく各地に令尹《れいいん》を務め、一時探題の名は世に聞こえぬ。しかも特質《もちまえ》のわがまま剛情が累をなして、明治政府に友少なく、浪子を媒《なかだち》せる加藤子爵などはその少なき友の一|人《にん》なりき。甲東没後はとかく志を得ずして世をおえつ。男爵を得しも、実は生まれ所のよかりしおかげ、という者もありし。されば剛情者、わがまま者、癇癪《かんしゃく》持ちの通武はいつも怏々《おうおう》として不平を酒杯《さけ》に漏らしつ。三合入りの大杯たてつけに五つも重ねて、赤鬼のごとくなりつつ、肩を掉《ふ》って県会に臨めば、議員に顔色《がんしょく》ある者少なかりしとか。さもありつらん。
 されば川島家はつねに戒厳令の下《もと》にありて、家族は避雷針なき大木の下に夏住むごとく、戦々|兢々《きょうきょう》として明かし暮らしぬ。父の膝《ひざ》をばわが舞踏|場《ば》として、父にまさる遊び相手は世になきように幼き時より思い込みし武男のほかは、夫人の慶子はもとより奴婢《ぬひ》出入りの者果ては居間の柱まで主人が鉄拳《てっけん》の味を知らぬ者なく、今は紳商とて世に知られたるかの山木ごときもこの賜物《たまもの》を頂戴《ちょうだい》して痛み入りしこともたびたびなりけるが、何これしきの下され物、もうけさして賜わると思えば、なあに廉《やす》い所得税だ、としばしば伺候しては戴《いただ》きける。右の通りの次第なれば、それ御前の御機嫌《ごきげん》がわるいといえば、台所の鼠《ねずみ》までひっそりとして、迅雷《じんらい》一声奥より響いて耳の太き下女手に持つ庖丁《ほうちょう》取り落とし、用ありて私宅へ来る属官などはまず裏口に回って今日《きょう》の天気予報を聞くくらいなりし。
 三十年から連れ添う夫人お慶の身になっては、なかなかひと通りのつらさにあらず。嫁に来ての当座はさすがに舅《しゅうと》や姑《しゅうとめ》もありて夫の気質そうも覚えず過ごせしが、ほどなく姑舅と相ついで果てられし後は、夫の本性ありありと拝まれて、夫人も胸をつきぬ。初め五六|度《たび》は夫人もちょいと盾《たて》ついて見しが、とてもむだと悟っては、もはや争わず、韓信《かんしん》流に負けて匍伏《ほふく》し、さもなければ三十六計のその随一をとりて逃げつ。そうするうちにはちっとは呼吸ものみ込みて三度の事は二度で済むようになりしが、さりとて夫の気質は年とともに改まらず。末の三四年は別してはげしくなりて、不平が煽《あお》る無理酒の焔《ほのお》に、燃ゆるがごとき癇癪を、二十年の上もそ
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