れで鍛われし夫人もさすがにあしらいかねて、武男という子もあり、鬢《びん》に白髪《しらが》もまじれるさえ打ち忘れて、知事様の奥方男爵夫人と人にいわるる栄耀《えいよう》も物かは、いっそこのつらさにかえて墓守爺《はかもり》の嬶《かか》ともなりて世を楽に過ごして見たしという考えのむらむらとわきたることもありしが、そうこうする間《ま》につい三十年うっかりと過ごして、そのつれなき夫通武が目を瞑《ねぶ》って棺のなかに仰向けに臥《ね》し姿を見し時は、ほっと息はつきながら、さて偽りならぬ涙もほろほろとこぼれぬ。
 涙はこぼれしが、息をつきぬ。息とともに勢いもつきぬ。夫通武存命の間は、その大きなる体と大きなる声にかき消されてどこにいるとも知れざりし夫人、奥の間よりのこのこ出《い》で来たり、見る見る家いっぱいにふくれ出しぬ。いつも主人のそばに肩をすぼめて細くなりて居し夫人を見し輩《もの》は、いずれもあきれ果てつ。もっとも西洋の学者の説にては、夫婦は永くなるほど容貌《かおかたち》気質まで似て来るものといえるが、なるほど近ごろの夫人が物ごし格好、その濃き眉毛《まゆげ》をひくひく動かして、煙管《きせる》片手に相手の顔をじっと見る様子より、起居《たちい》の荒さ、それよりも第一|癇癪《かんしゃく》が似たとは愚か亡くなられし男爵そのままという者もありき。
 江戸の敵《かたき》を長崎で討《う》つということあり。「世の中の事は概して江戸の敵を長崎で討つものなり。在野党の代議士今日議院に慷慨《こうがい》激烈の演説をなして、盛んに政府を攻撃したもう。至極結構なれども、実はその気焔《きえん》の一半は、昨夜|宅《うち》にてさんざんに高利貸《アイスクリーム》を喫《く》いたまいし鬱憤《うっぷん》と聞いて知れば、ありがた味も半ば減ずるわけなり。されば南シナ海の低気圧は岐阜《ぎふ》愛知《あいち》に洪水を起こし、タスカローラの陥落は三陸に海嘯《かいしょう》を見舞い、師直《もろなお》はかなわぬ恋のやけ腹を「物の用にたたぬ能書《てかき》」に立つるなり。宇宙はただ平均、物は皆その平を求むるなり。しこうしてその平均を求むるに、吝嗇者《りんしょくもの》の日済《ひなし》を督促《はた》るように、われよりあせりて今戻せ明日《あす》返せとせがむが小人《しょうじん》にて、いわゆる大人《たいじん》とは一切の勘定を天道様《てんとうさま》の銀行に任して、われは真一文字にわが分をかせぐ者ぞ」とある人情|博士《はかせ》はのたまいける。
 しかし凡夫《ぼんぷ》は平均を目の前に求め、その求むるや物体運動の法則にしたがいて、水の低きにつくがごとく、障害の少なき方に向かう。されば川島未亡人も三十年の辛抱、こらえこらえし堪忍《かんにん》の水門、夫の棺の蓋《ふた》閉ずるより早く、さっと押し開いて一度に切って流しぬ。世に恐ろしと思う一人《ひとり》は、もはやいかに拳《こぶし》を伸ばすもわが頭《こうべ》には届かぬ遠方へ逝《ゆ》きぬ。今まで黙りて居しは意気地《いくじ》なきのにはあらず、夫死してもわれは生きたりと言い顔に、知らず知らず積みし貸し金、利に利をつけてむやみに手近の者に督促《はた》り始めぬ。その癇癪も、亡くなられし男爵は英雄|肌《はだ》の人物だけ、迷惑にもまたどこやらに小気味よきところもありたるが、それほどの力量《ちから》はなしにわけわからず、狭くひがみてわがまま強き奥様より出《い》でては、ただただむやみにつらくて、奉公人は故男爵の時よりも泣きける。
 浪子の姑はこの通りの人なりき。

     六の二

 丸髷《まるまげ》を揚巻《あげまき》にかえしそのおりなどは、まだ「お嬢様、おやすくお伴《とも》いたしましょう」と見当違いの車夫《くるまや》に言われて、召使いの者に奥様と呼びかけられて返事にたゆとう事はなきようになれば、花嫁の心もまず少しは落ちつきて、初々《ういうい》しさ恥ずかしさの狭霧《さぎり》に朦朧《ぼいやり》とせしあたりのようすもようよう目に分《わか》たるるようになりぬ。
 家ごとに変わるは家風、御身《おんみ》には言って聞かすまでもなけれど、構えて実家《さと》を背負うて先方《さき》へ行きたもうな、片岡浪は今日限り亡くなって今よりは川島浪よりほかになきを忘るるな。とはや晴れの衣装着て馬車に乗らんとする前に父の書斎に呼ばれてねんごろに言い聞かされしを忘れしにはあらねど、さて来て見れば、家風の相違も大抵の事にはあらざりけり。
 資産《しんだい》はむしろ実家《さと》にも優《まさ》りたらんか。新華族のなかにはまず屈指《ゆびおり》といわるるだけ、武男の父が久しく県令知事務めたる間《ま》に積みし財《たから》は鉅万《きょまん》に上りぬ。さりながら実家《さと》にては、父中将の名声|海内《かいだい》に噪《さわ》ぎ、今は予備におれど交際広
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