《さむらい》の娘にて、久しく英国ロンドンに留学しつれば、英語は大抵の男子も及ばぬまで達者なりとか。げにもロンドンの煙《けむ》にまかれし夫人は、何事によらず洋風を重んじて、家政の整理、子供の教育、皆わが洋のほかにて見もし聞きもせし通りに行わんとあせれど、事おおかたは志と違《たが》いて、僕婢《おとこおんな》は陰にわが世なれぬをあざけり、子供はおのずから寛大なる父にのみなずき、かつ良人《おっと》の何事も鷹揚《おうよう》に東洋風なるが、まず夫人不平の種子《たね》なりけるなり。
 中将が千辛万苦して一ページを読み終わり、まさに訳読にかからんとする所に、扉《と》翻りて紅《くれない》のリボンかけたる垂髪《さげがみ》の――十五ばかりの少女《おとめ》入り来たり、中将が大の手に小《ち》さき読本をささげ読めるさまのおかしきを、ほほと笑いつ。
 「おかあさま、飯田町《いいだまち》の伯母《おば》様がいらッしゃいましてよ」
 「そう」と見るべく見るべからざるほどのしわを眉《まゆ》の間に寄せながら、ちょっと中将の顔をうかがう。
 中将はおもむろにたち上がりて、椅子を片寄せ「こちへ御案内申しな」

     五の三

 「御免ください」
 とはいって来しは四十五六とも見ゆる品よき婦人、目|病《や》ましきにや、水色の眼鏡《めがね》をかけたり。顔のどことなく伊香保の三階に見し人に似たりと思うもそのはずなるべし。こは片岡中将の先妻の姉|清子《せいこ》とて、貴族院議員子爵|加藤俊明《かとうとしあき》氏の夫人、媒妁《なかだち》として浪子を川島家に嫁《とつ》がしつるもこの夫婦なりけるなり。
 中将はにこやかにたちて椅子をすすめ、椅子に向かえる窓の帷《とばり》を少し引き立てながら、
 「さあ、どうか。非常にごぶさたをしました。御主人《おうち》じゃ相変わらずお忙《せわ》しいでしょうな。ははははは」
 「まるで※[#「※」は「束」の上半分に「冖+石+木」、第3水準1−86−13、43−7]駝師《うえきや》でね、木鋏《はさみ》は放しませんよ。ほほほほ。まだ菖蒲《しょうぶ》には早いのですが、自慢の朝鮮|柘榴《ざくろ》が花盛りで、薔薇《ばら》もまだ残ってますからどうかおほめに来てくださいまして、ね、くれぐれ申しましたよ。ほほほほ。――どうか、毅一《きい》さんや道《みい》ちゃんをお連れなすッて」と水色の眼鏡は片岡夫人の方《かた》に向かいぬ。
 打ち明けていえば、子爵夫人はあまり水色の眼鏡をば好まぬなり。教育の差《ちがい》、気質の異なり、そはもちろんの事として、先妻の姉――これが始終心にわだかまりて、不快の種子《たね》となれるなり。われひとり主人中将の心を占領して、われひとり家に女|主人《あるじ》の威光を振るわんずる鼻さきへ、先妻の姉なる人のしばしば出入して、亡《な》き妻の面影《おもかげ》を主人の眼前《めさき》に浮かぶるのみか、口にこそ出《いだ》さね、わがこれをも昔の名残《なごり》とし疎《うと》める浪子、姥《うば》の幾らに同情を寄せ、死せる孔明《こうめい》のそれならねども、何かにつけてみまかりし人の影をよび起こしてわれと争わすが、はなはだ快からざりしなり。今やその浪子と姥の幾はようやくに去りて、治外の法権|撤《と》れしはやや心安きに似たれど、今もかの水色眼鏡の顔見るごとに、髣髴《ほうふつ》墓中の人の出《い》で来たりてわれと良人《おっと》を争い、主婦の権力を争い、せっかく立てし教育の方法家政の経綸《けいりん》をも争わんずる心地《ここち》して、おのずから安からず覚ゆるなりけり。
 水色の眼鏡は蝦夷錦《えぞにしき》の信玄袋《しんげんぶくろ》より瓶詰《びんづめ》の菓子を取り出《いだ》し
 「もらい物ですが、毅一《きい》さんと道《みい》ちゃんに。まだ学校ですか、見えませんねエ。ああ、そうですか。――それからこれは駒《こま》さんに」
 と紅茶を持て来し紅《くれない》のリボンの少女に紫陽花《あじさい》の花簪《はなかんざし》を与えつ。
 「いつもいつもお気の毒さまですねエ、どんなに喜びましょう」と言いつつ子爵夫人は件《くだん》の瓶をテーブルの上に置きぬ。
 おりから婢《おんな》の来たりて、赤十字社のお方の奥様に御面会なされたしというに、子爵夫人は会釈して場をはずしぬ。室を出《い》でける時、あとよりつきて出《い》でし少女《おとめ》を小手招きして、何事をかささやきつ。小戻りして、窓のカーテンの陰に内《うち》の話を立ち聞く少女《おとめ》をあとに残して、夫人は廊下伝いに応接間の方《かた》へ行きたり。紅のリボンのお駒というは、今年十五にて、これも先妻の腹なりしが、夫人は姉の浪子を疎《うと》めるに引きかえてお駒を愛しぬ。寡言《ことばすくな》にして何事も内気なる浪子を、意地わるき拗《す》ね者とのみ思い誤りし夫人は、
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