》ぎりの水兵の服を着て、編み上げ靴をはきたり。一人の曲者は五つか、六つなるべし、紫|矢絣《やがすり》の単衣《ひとえ》に紅《くれない》の帯して、髪ははらりと目の上まで散らせり。
二人の曲者はしばし戸の外にたゆたいしが、今はこらえ兼ねたるように四つの手ひとしく扉をおしひらきて、一斉に突貫し、室のなかほどに横たわりし新聞|綴込《とじこみ》の堡塁《ほうるい》を難なく乗り越え、真一文字に中将の椅子《いす》に攻め寄せて、水兵は右、振り分け髪は左、小山のごとき中将の膝を生けどり、
「おとうさま!」
五の二
「おう、帰ったか」
いかにもゆったりとその便々たる腹の底より押しあげたようなる乙音《ベース》を発しつつ、中将はにっこりと笑《え》みて、その重やかなる手して右に水兵の肩をたたき、左に振り分け髪のその前髪をかいなでつ。
「どうだ、小試験は? でけたか?」
「僕アね、僕アね、おとうさま、僕ア算術は甲」
「あたしね、おとうさま、今日《きょう》は縫い取りがよくできたッて先生おほめなすッてよ」
と振り分け髪はふところより幼稚園の製作物《こしらえもの》を取り出《いだ》して中将の膝の上に置く。
「おう、こら立派にでけたぞ」
「それからね、習字に読書が乙で、あとはみんな丙なの、とうと水上《みなかみ》に負けちゃッた。僕アくやしくッて仕方がないの」
「勉強するさ――今日は修身の話は何じゃッたか?」
水兵は快然と笑《え》みつつ、「今日はね、おとうさま、楠正行《くすのきまさつら》の話よ。僕正行ア大好き。正行とナポレオンはどっちがエライの?」
「どっちもエライさ」
「僕アね、おとうさま、正行ア大好きだけど、海軍がなお好きよ。おとうさまが陸軍だから、僕ア海軍になるンだ」
「はははは。川島の兄君《にいさん》の弟子《でし》になるのか?」
「だッて、川島の兄君《にいさん》なんか少尉だもの。僕ア中将になるンだ」
「なぜ大将にやならンか?」
「だッて、おとうさまも中将だからさ。中将は少尉よかエライんだね、おとうさま」
「少尉でも、中将でも、勉強する者がエライじゃ」
「あたしね、おとうさま、おとうさまてばヨウおとうさま」と振り分け髪はつかまりたる中将の膝を頡頏台《はねだい》にしてからだを上下《うえした》に揺すりながら、「今日はね、おもしろいお話を聞いてよ、あの兎《うさぎ》と亀《かめ》のお話を聞いてよ、言って見ましょうか、――ある所に一ぴきの兎と亀がおりました――あらおかあさまいらッしてよ」
柱時計の午後|二点《にじ》をうつ拍子に、入り来たりしは三十八九の丈《たけ》高き婦人なり。束髪の前髪をきりて、ちぢらしたるを、隆《たか》き額の上にて二つに分けたり。やや大きなる目少しく釣りて、どこやらちと険なる所あり。地色の黒きにうっすり刷《は》きて、唇《くちびる》をまれに漏るる歯はまばゆきまで皓《しろ》くみがきぬ。パッとしたお召の単衣《ひとえ》に黒繻子《くろじゅす》の丸帯、左右の指に宝石《たま》入りの金環|価《あたえ》高かるべきをさしたり。
「またおとうさまに甘えているね」
「なにさ、今学校の成績を聞いてた所じゃ。――さあ、これからおとうさんのおけいこじゃ。みんな外で遊べ遊べ。あとで運動に行くぞ」
「まあ、うれしい」
「万歳!」
両児《ふたり》は嬉々《きき》として、互いにもつれつ、からみつ、前になりあとになりて、室を出《い》で去りしが、やがて「万歳!」「兄《にい》さまあたしもよ」と叫ぶ声はるかに聞こえたり。
「どんなに申しても、良人《あなた》はやっぱり甘くなさいますよ」
中将はほほえみつ。「何、そうでもないが、子供はかあいがッた方がいいさ」
「でもあなた、厳父慈母と俗にも申しますに、あなたがかあいがッてばかりおやンなさいますから、ほんとに逆さまになッてしまッて、わたくしは始終しかり通しで、悪《にく》まれ役はわたくし一人《ひとり》ですわ」
「まあそう短兵急《たんぺいきゅう》に攻めンでもええじゃないか。どうかお手柔らかに――先生はまずそこにおかけください。はははは」
打ち笑いつつ中将は立ってテーブルの上よりふるきローヤルの第三|読本《リードル》を取りて、片唾《かたず》をのみつつ、薩音《さつおん》まじりの怪しき英語を読み始めぬ。静聴する婦人――夫人はしきりに発音の誤りを正しおる。
こは中将の日課なり。維新の騒ぎに一介の武夫として身を起こしたる子爵は、身生の※[#「※」は「つつみがまえ」+「夕」、第3水準1−14−76、41−18]忙《そうぼう》に逐《お》われて外国語を修むるのひまもなかりしが、昨年来予備となりて少し閑暇を得てければ、このおりにとまず英語に攻めかかれるなり。教師には手近の夫人|繁子《しげこ》。長州の名ある士人
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