別れましてね。
夜《よ》も大分《だいぶ》ふけていました。帰るとあなた姑《しゅうと》は待ち受けていたという体《てい》で、それはひどい怒《おこ》りよう苦《にが》りようで、情けないじゃございませんか、私に何かくらい、あるまじいしわざでもあるように言いましてね。胸をさすッて、父の事を打ち明けて申しますと、気の毒と思ってくれればですが、それはもう聞きづらい恥ずかしい事を――あまり口惜しくて、情けなくて、今度ばかりは辛抱も何もない、もうもう此家《ここ》にはいない、今からすぐと父のそばに行って、とそう思いましてね、姑が臥《ふ》せりましたあとで、そっと着物を着かえて、悴《せがれ》=六つでした=がこう寝《やす》んでいます枕《まくら》もとで書き置きを書いていますと、悴が夢でも見たのですか、眠ったまま右の手を伸ばして「母《かあ》さま、行っちゃいやよ」と申すのですよ。その日小石川にまいる時置いて行ったのですから、その夢を見たのでしょうが、びっくりしてじっとその寝顔を見ていますと、その顔が良人の顔そのままになって、私は筆を落として泣いていました。そうすると、まあどうして思い出したのでございますか、まだ子供の時分にね、寝物語に母から聞いた嫁姑の話、あの話がこうふと心に浮かみましてね、ああ私一人の辛抱で何も無事に治まることと、そうおもい直しましてね――あなた、御退屈でしょう?」
身にしみて聴《き》ける浪子は、答うるまでもなくただ涙の顔を上げつ。幾が新たにくめる茶をすすりて、老婦人は再び談緒《だんちょ》をつぎぬ。
「それからとやかく姑にわびましてね、しかしそんなわけですからなかなか父を引き取るの貢《みつ》ぐのということはできません。で、まあごく内々で身のまわり=多くもありませんでしたが=の物なんぞ売り払ったり、それもながくは続かないのですから、良人の知己《しるべ》に頼みましてね、ある外国公使の夫人に物好きで日本の琴を習いたいという人がありましてね、それで姑の前をとやかくしてそれから月に幾たび琴を教えて、まあ少しは父を楽にすることができたのですが、そうするうちに、その夫人と懇意になりましてね、それは珍しいやさしい人でして、時々は半解《はんわかり》の日本語でいろいろ話をしましてね、読んでごらんなさいといって本を一冊くれました。それがね、そのころ初めて和訳になったマタイ伝――この聖書の初めにありますのでした。少し読みかけて見たのですが、何だか変な事ばかり書いてありまして、まあそのままにうっちゃって置いたのでした。
それから翌年《よくとし》の春、姑はふと中風《ちゅうふう》になりましてね、気の強い人でしたが、それはもう子供のように、ひどくさびしがって、ちょいとでもはずしますと、お清《きよ》お清とすぐ呼ぶのでございますよ。そばにすわって、蠅《はえ》を追いながら、すやすや眠る姑の顔を見ていますと、本当にこうなるものをなぜ一度でも心に恨んだことがあったろう、できることならもう一度丈夫にして、とそうおもいましてね、精一杯骨を折ったのですが、そのかいもないのでした。
姑が亡くなりますとほどなく良人が帰朝しましてね。それから引き取るというきわになって、父も安心したせいですか、急に病気になって、つい二三日でそれこそ眠るように消えました。もう生涯会われぬと思った娘には会うし、やさしくしてくれるし、自分ほど果報者はないと、そう申しましてね。――でも私は思う十分一もできませんで、今でも思い出すたびにもう一度|活《い》かして思う存分喜ばして見たいと思わぬ時はありませんよ。
それから良人は次第に立身いたします、悴は大きくなりまして、私もよほど楽になったのですが、ただ気をもみましたのは、良人の大酒《たいしゅ》――軍人は多くそうですが――の癖でした。それから今でもやはりそうですが、そのころは別してね、男子《おとこ》の方《かた》が不行跡で、良人なんぞはまあ西洋にもまいりますし、少しはいいのでしたが、それでも恥ずかしい事ですが、私も随分心配をいたしました。それとなく異見をしましても、あなた、笑って取り合いませんのですよ。
そうするうちにあの十年の戦争になりまして、良人――近衛《このえ》の大佐でした――もまいります。そのあとに悴が猩紅熱《しょうこうねつ》で、まあ日夜《ひるよる》つきッきりでした。四月十八日の夜《ばん》でした、悴が少しいい方でやすんでいますから、婢《おんな》なぞもみんな寝せまして、私は悴の枕もとに、行燈《あんどう》の光で少し縫い物をしていますと、ついうとうといたしましてね。こう気が遠《とおー》くなりますと、すうと人の来る気《け》はいがいたして、悴の枕もとにすわる者があるのです。たれかと思って見ますと、あなた、良人です、軍服のままで、血だらけになりまして、蒼《あお》ざめて――
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