あ俗に背《せな》かを打って咽《のど》をしむるなど申しますが、ちょっとそんな人でした。私も十分辛抱をしたつもりですが、それでも時々は辛抱しきれないで、屏風《びょうぶ》の陰で泣いて、赤い目を見てしかられてまた泣いて、亡くなった母を思い出すのもたびたびでした。
 そうするうちに維新の騒ぎになりました。江戸じゅうはまるで鍋《なべ》のなかのようでしてね。良人も父も弟もみんな彰義隊《しょうぎたい》で上野にいます、それに舅が大病で、私は懐妊《みもち》というのでしょう。ほんとに気は気でなかったのでした。
 それから上野は落ちます、良人は宇都宮《うつのみや》からだんだん函館《はこだて》までまいり、父は行くえがわからなくなり、弟は上野で討死《うちじに》をいたして、その家族も失踪《なくな》ってしまいますし、舅もとうとう病死をしましてね、そのなかでわたくしは産をいたしますし、何が何やらもう夢のようで、それから家禄《かろく》はなくなる、家財はとられますし、私は姑と年寄りの僕《ぼく》を一人《ひとり》連れましてね、当歳の児《こ》を抱いてあの箱根をこえて静岡《しずおか》に落ちつくまでは、恐ろしい夢を見たようでした」
 この時看護婦入り来たりて、会釈しつつ、薬を浪子にすすめ終わりて、出《い》で行きたり。しばし瞑目《めいもく》してありし老婦人は目を開きて、また語りつづけぬ。
 「静岡での幕士の苦労は、それはお話になりませんくらいで、将軍家がまずあの通り、勝《かつ》先生なんぞも裏小路《うらこうじ》の小さな家にくすぶっておいでの時節ですからね、五千石の私どもに三人|扶持《ぶち》はもったいないわけですが、しかし恥ずかしいお話ですが、そのころはお豆腐が一|丁《ちょう》とは買えませんで、それに姑はぜいたくになれておるのですから、ほんとに気をもみましたよ。で、私はね、町の女子供を寄せて手習いや、裁縫《しごと》を教えたり、夜もおそくまで、賃仕事をしましてね。それはいいのですが、姑はいよいよ気が荒くなりまして、時勢のしわざを私に負わすようなわけで、それはひどく当たりますし、良人《おっと》はいませず=良人は函館後はしばらく牢《ろう》に入《はい》っていました=父の行くえもわかりませんし、こんな事なら死んだ方がと思ったことは日に幾たびもありましたが、それを思い返し思い返ししていたのです。本当にこのころは一年に年の十もとりましたのですよ。
 そうするうちに、良人も陸軍に召し出さるるようになって、また箱根をこえて、もう東京ですね、その東京に帰ったのが、さよう、明治五年の春でした。その翌春良人は洋行を命ぜられましてね。朝夕《ちょうせき》の心配はないようになったのですが、姑《しゅうと》の気分は一向に変わりませず――それはいいのでございますが、気にかかる父の行くえがどうしてもわかりません。
 良人が洋行しましたその秋、ひどい雨の降る日でしたがね、小石川の知己《しるべ》までまいって、その家《うち》で雇ってもらった車に乗って帰りかけたのです。日は暮れます、ひどい雨風で、私は幌《ほろ》の内《うち》に小さくなっていますと、車夫《くるまや》はぼとぼとぼとぼと引いて行きましょう、饅頭笠《まんじゅうがさ》をかぶってしわだらけの桐油合羽《とうゆがっぱ》をきているのですが、雨がたらたらたらたら合羽から落ちましてね、提灯《ちょうちん》の火はちょろちょろ道の上に流れて、車夫《くるまや》は時々ほっほっ太息《といき》をつきながら引いて行くのです。ちょうど水道橋にかかると、提灯がふっと消えたのです。車夫《くるまや》は梶棒《かじぼう》をおろして、奥様、お気の毒ですがその腰掛けの下にオランダ付け木(マッチの事ですよ)がはいっていますから、というのでしょう。風がひどいのでよくは聞こえないのですがその声が変に聞いたようでね、とやこうしてマッチを出して、蹴込《けこ》みの方に向いてマッチをする、その火光《あかり》で車夫《くるまや》の顔を見ますと、あなた、父じゃございませんか」
 老婦人がわれにもあらず顔打ちおおいぬ。浪子は汪然《おうぜん》として泣けり。次の間にも飲泣《いきすすり》の声聞こゆ。

     五の三

 目をぬぐいて、老婦人は語り続けぬ。
 「同じ東京にいながら、知らずにいればいられるものですねエ。それから父と連れ立って、まあ近くの蕎麦屋《そばや》にまいりましてね、様子を聞いて見ますと、上野の落ちた後は諸処方々を流浪《るろう》して、手習いの先生をしたり、病気したり、今は昔の家来で駒込《こまごめ》のすみにごくごく小さな植木屋をしているその者にかかッて、自身はこう毎日貸し車を引いているというのでございますよ。うれしいやら、悲しいのやら、情けないのやら、込み上げて、ろくに話もできないのです。それからまあその晩は父に心づけられて
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