に思わるれど、目に温《あたた》かなる光ありて、細き口もとにおのずからなる微笑あり。
幾があたかもうわさしたるはこの人なり。未《いま》だし。一週間以前の不動|祠畔《しはん》の水屑《みくず》となるべかりし浪子をおりよくも抱き留めたるはこの人なりけり。
ラッパを吹き鼓を鳴らして名を売ることをせざれば、知らざる者は名をだに聞かざれど、知れる者はその包むとすれどおのずから身にあふるる光を浴びて、ながくその人を忘るるあたわずというなり。姓は小川《おがわ》名は清子《きよこ》と呼ばれて、目黒《めぐろ》のあたりにおおぜいの孤児女と棲《す》み、一大家族の母として路傍に遺棄せらるる幾多の霊魂を拾いてははぐくみ育つるを楽しみとしつ。肋膜炎《ろくまくえん》に悩みし病余の体《たい》を養うとて、昨月の末より此地《ここ》に来たれるなるが、かの日、あたかも不動祠にありて図らず浪子を抱《いだ》き止め、その主人を尋ねあぐみて狼狽《ろうばい》して来たれる幾に浪子を渡せしより、おのずから往来の道は開けしなり。
五の二
茶を持《も》て来て今|罷《まか》らんとしつる幾はやや驚きて
「まあ、明日《あす》お帰京《かえり》遊ばすんで。へエエ。せっかくおなじみになりかけましたのに」
老婦人もその和らかなる眼光《まなざし》に浪子を包みつつ
「私《わたくし》もも少し逗留《とうりゅう》して、お話もいたしましょうし、ごあんばいのいいのを見て帰りたいのでございますが――」
言いつつ懐中《ふところ》より小形の本を取り出《いだ》し、
「これは聖書ですがね。まだごらんになったことはございますまい」
浪子はいまださる書《もの》を読まざるなり。彼女《かれ》が継母は、その英国に留学しつる間は、信徒として知られけるが、帰朝の日その信仰とその聖書をば挙《あ》げてその古靴及び反故《ほご》とともにロンドンの仮寓《やどり》にのこし来たれるなり。
「はい、まだ拝見いたした事はございませんが」
幾はなお立ち去りかねて、老婦人が手中の書を、目を円《つぶら》にしてうちまもりぬ。手品の種はかのうちに、と思えるなるべし。
「これからその何でございますよ、御気分のよろしい時分に、読んでごらんになりましたら、きっとおためになることがあろうと思いますよ。私《わたくし》も今少し逗留《とうりゅう》していますと、いろいろお話もいたすのですが――今日はお告別《わかれ》に私がこの書を読むようになりましたその来歴《しまつ》をね、お話し[#底本のママ、「お話」ではなく「お話し」]したいと思いますが。あなたお疲れはなさいませんか。何なら御遠慮なくおやすみなすッて」
しみじみと耳|傾《かたぶ》けし浪子は顔を上げつ。
「いいえ、ちょっとも疲れはいたしません。どうかお話し遊ばして」
茶を入れかえて、幾は次に立ちぬ。
小春日の午後は夜《よ》よりも静かなり。海の音遠く、障子に映る松の影も動かず。ただはるかに小鳥の音の清きを聞く。東側のガラス障子を透かして、秋の空高く澄み、錦《にしき》に染まれる桜山は午後の日に燃えんとす。老婦人はおもむろに茶をすすりて、うつむきて被布の膝《ひざ》をかいなで、仰いで浪子の顔うちまもりつつ、静かに口を開き始めぬ。
「人の一生は長いようで短く、短いようで長いものですよ。
私の父は旗本で、まあ歴々のうちでした。とうに人の有《もの》になってしまったのですが、ご存じでいらッしゃいましょう、小石川《こいしかわ》の水道橋を渡って、少しまいりますと、大きな榎《えのき》が茂っている所がありますが、私はあの屋敷に生まれましたのです。十二の年に母は果てます、父はひどく力を落としまして後妻《あと》もとらなかったのですから、子供ながら私がいろいろ家事をやってましたね。それから弟に嫁をとって、私はやはり旗下《はたもと》の、格式は少し上でしたが小川の家《うち》にまいったのが、二十一の年、あなた方はまだなかなかお生まれでもなかったころでございますよ。
私も女大学で育てられて、辛抱なら人に負けぬつもりでしたが、実際にその場に当たって見ますと、本当に身にしみてつらいことも随分多いのでしてね。時勢《とき》が時勢《とき》で、良人《おっと》は滅多に宅《うち》にいませず、舅姑《しゅうと》に良人の姉妹《きょうだい》が二人《ふたり》=これはあとで縁づきましたが=ありまして、まあ主人を五人もったわけでして、それは人の知らぬ心配もいたしたのですよ。舅《しゅうと》はそうもなかったのですが、姑《しゅうとめ》がよほど事《つか》えにくい人でして、実は私の前に、嫁に来た婦人《ひと》があったのですが、半歳《はんとし》足らずの間に、逃げて帰ったということで、亡くなッた人をこう申すのははしたないようですが、気あらな、押し強い、弁も達者で、ま
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