たる岩も砕けよとうちつけつ。渺々《びょうびょう》たる相洋は一|分時《ぷんじ》ならずして千波|万波《ばんぱ》鼎《かなえ》のごとく沸きぬ。
 雨と散るしぶきを避けんともせず、浪子は一心に水の面《おも》をながめ入りぬ。かの水の下には死あり。死はあるいは自由なるべし。この病をいだいて世に苦しまんより、魂魄《こんぱく》となりて良人に添うはまさらずや。良人は今黄海にあり。よしはるかなりとも、この水も黄海に通えるなり。さらば身はこの海の泡《あわ》と消えて、魂《たま》は良人のそばに行かん。
 武男が書をばしっかとふところに収め、風に乱るる鬢《びん》かき上げて、浪子は立ち上がりぬ。
 風は※[#「※」は「風」+「犬」を3つ、第4水準2−92−41、183−11]々《ひょうひょう》として無辺の天より落とし来たり、かろうじて浪子は立ちぬ。目を上ぐれば、雲は雲と相追うて空を奔《はし》り、海は目の届く限り一面に波と泡とまっ白に煮えかえりつ。湾を隔つる桜山は悲鳴してたてがみのごとく松を振るう。風|吼《ほ》え、海|哮《たけ》り、山も鳴りて、浩々《こうこう》の音天地に満ちぬ。
 今なり、今なり、今こそこの玉の緒は絶ゆる時なれ。導きたまえ、母。許したまえ、父。十九年の夢は、今こそ――。
 襟《えり》引き合わせ、履物《はきもの》をぬぎすてつつ、浪子は今打ち寄せし浪の岩に砕けて白泡《しらあわ》沸《たぎ》るあたりを目がけて、身をおどらす。
 その時、あと背後《うしろ》に叫ぶ声して、浪子はたちまち抱き止められつ。

     五の一

 「ばあや。お茶を入れるようにしてお置き。もうあの方がいらっしゃる時分ですよ」
 かく言いつつ浪子はおもむろに幾を顧みたり。幾はそこらを片づけながら
 「ほんとにあの方はいい方《かた》でございますねエ。あれでも耶蘇《やそ》でいらッしゃいますッてねエ」
 「ああそうだッてね」
 「でもあんな方が切支丹《きりしたん》でいらッしゃろうとは思いませんでしたよ。それにあんなに髪を切ッていらッしゃるのですら」
 「なぜかい?」
 「でもね、あなた、耶蘇の方では御亭主が亡《な》くなッても髪なんぞ切りませんで、なおのことおめかしをしましてね、すぐとまたお嫁入りの口をさがしますとさ」
 「ほほほほ、ばあやはだれからそんな事を聞いたのかい?」
 「イイエ、ほんとでございますよ。一体あの宗旨では、若い娘《もの》までがそれは生意気でございましてね、ほんとでございますよ。幾が親類《みうち》の隣家《となり》に一人《ひとり》そんな娘《こ》がございましてね、もとはあなたおとなしい娘《こ》で、それがあの宗旨の学校にあがるようになりますとね、あなた、すっかりようすが変わっちまいましてね、日曜日になりますとね、あなた、母親《おや》が今日《きょう》は忙《せわ》しいからちっと手伝いでもしなさいと言いましてもね、平気でそのお寺にいっちまいましてね、それから学校はきれいだけれども家《うち》はきたなくていけないの、母《おっか》さんは頑固《がんこ》だの、すぐ口をとがらしましてね、それに学校に上がっていましても、あなた、受取証が一枚書けませんでね、裁縫《しごと》をさせますと、日が一日|襦袢《じゅばん》の袖《そで》をひねくっていましてね、お惣菜《そうざい》の大根をゆでなさいと申しますと、あなた、大根を俎板《まないた》に載せまして、庖丁《ほうちょう》を持ったきりぼんやりしておるのでございますよ。両親《おや》もこんな事ならあんな学校に入れるんじゃなかったと悔やんでいましてね。それにあなた、その娘《こ》はわたしはあの二百五十円より下の月給の良人《ひと》には嫁《い》かない、なんぞ申しましてね。ほんとにあなた、あきれかえるじゃございませんか。もとはやさしい娘《こ》でしたのに、どうしてあんなになったンでございましょうねエ。これが切支丹の魔法でございましょうね」
 「ほほほほ。そんなでも困るのね。でも、何だッて、いい所もあれば、わるいところもあるから、よく知らないではいわれないよ。ねエばあや」
 心得ずといわんがごとく小首傾けし幾は、熱心に浪子を仰ぎつつ
 「でもあなた、耶蘇《やそ》だけはおよし遊ばせ」
 浪子はほほえみつ。
 「あの方とお話ししてはいけないというのかい」
 「耶蘇《やそ》がみんなあんな方だとようございますがねエ、あなた。でも――」
 幾は口をつぐみぬ。うわさをすれば影ありありと西側の障子に映り来たれるなり。
 「お庭口から御免ください」
 細く和らかなる女の声響きて、忙《いそが》わしく幾がたちてあけし障子の外には、五十あまりの婦人の小作りなるがたたずみたり。年よりも老《ふ》けて、多き白髪《しらが》を短くきり下げ、黒地の被布《ひふ》を着つ。やせたる上にやつれて見ゆれば、打ち見にはやや陰気
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