実にただ一の活路なりけり。浪子は死をまちわびぬ。身は病の床に苦しみ、心はすでに世の外《ほか》に飛びき。今日《きょう》にもあれ、明日《あす》にもあれ、この身の絆《ほだし》絶えなば、惜しからぬ世を下に見て、魂《こん》千万里の空《くう》を天に飛び、なつかしき母の膝《ひざ》に心ゆくばかり泣きもせん、訴えもせん、と思えば待たるるは実に死の使いなりけり。
あわれ彼女《かれ》は死をだに心に任せざりき。今日、今日と待ちし今日は幾たびかむなしく過ぎて、一月あまり経たれば、われにもあらで病やや間《かん》に、二月を経てさらに軽《かろ》くなりぬ。思いすてし命をまたさらにこの世に引き返されて、浪子はまた薄命に泣くべき身となりぬ。浪子は実に惑えるなり。生の愛すべく死の恐るべきを知らざる身にはあらずや。何のために医を迎え、何のために薬を服し、何のために惜しからぬ命をつながんとするぞ。
されど父の愛あり。朝《あした》に夕《ゆうべ》に彼女《かれ》が病床を省《せい》し、自ら薬餌《やくじ》を与え、さらに自ら指揮して彼女《かれ》がために心静かに病を養うべき離家《はなれ》を建て、いかにもして彼女《かれ》を生かさずばやまざらんとす。父の足音を聞き、わが病の間《かん》なるによろこぶ慈顔を見るごとに、浪子は恨みにはおとさぬ涙のおのずから頬《ほお》にしたたるを覚えず、みだりに死をこいねごうに忍びずして、父のために務めて病をば養えるなり。さらに一あり。浪子は良人《おっと》を疑うあたわざりき。海かれ山くずるるも固く良人の愛を信じたる彼女《かれ》は、このたびの事一も良人の心にあらざるを知りぬ。病やや間《かん》になりて、ほのかに武男の消息を聞くに及びて、いよいよその信に印|捺《お》されたる心地《ここち》して、彼女《かれ》はいささか慰められつ。もとよりこの後のいかに成り行くべきを知らず、よしこの疾《やまい》痊《い》ゆとも一たび絶えし縁は再びつなぐ時なかるべきを感ぜざるにあらざるも、なお二人が心は冥々《めいめい》の間《うち》に通いて、この愛をば何人《なんびと》もつんざくあたわじと心に謂《い》いて、ひそかに自ら慰めけるなり。
されば父の愛と、このほのかなる望みとは、手を尽くしたる名医の治療と相待ちて、消えんとしたる彼女《かれ》が玉の緒を一たびつなぎ留め、九月|初旬《はじめ》より浪子は幾と看護婦を伴のうて再び逗子の別墅《べっしょ》に病を養えるなりき。
四の二
逗子に来てよりは、症《やまい》やや快く、あたりの静かなるに、心も少しは静まりぬ。海の音遠き午後《ひるすぎ》、湯上がりの体《たい》を安楽|椅子《いす》に倚《よ》せて、鳥の音の清きを聞きつつうっとりとしてあれば、さながら去《い》にし春のころここにありける時の心地《ここち》して、今にも良人の横須賀より来たり訪《と》わん思いもせらるるなりけり。
別墅《べっしょ》の生活は、去る四五月のころに異ならず。幾と看護婦を相手に、日課は服薬運動の時間を違《たが》えず、体温を検し、定められたる摂生法を守るほかは、せめての心やりに歌|詠《よ》み秋草を活《い》けなどして過ごせるなり。週に一二回、医は東京より来たり見舞いぬ。月に両三日、あるいは伯母、あるいは千鶴子、まれに継母も来たり見舞いぬ。その幼き弟妹《はらから》二人は病める姉をなつかしがりて、しばしば母に請えど、病を忌み、かつは二人の浪子になずくをおもしろからず思える母は、ただしかりてやみぬ。今の身の上を聞き知りてか、昔の学友の手紙を送れるも少なからねど、おおかたは文字《もじ》麗しくして心を慰むべきものはかえってまれなる心地《ここち》して、よくも見ざりき。ただ千鶴子の来たるをば待ちわびつ。聞きたしと思う消息は重に千鶴子より伝われるなり。
縁絶えしより、川島家は次第に遠くなりつ。幾百里西なる人の面影《おもかげ》は日夕《にっせき》心に往来するに引きかえて、浪子はさらにその人の母をば思わざりき。思わずとにはあらで、思わじと務めしなりけり。心一たびその姑《しゅうと》の上に及ぶごとに、われながら恐ろしく苦き一念の抑《おさ》うれどむらむらと心《むね》にわき来たりて、気の怪しく乱れんとするを、浪子はふりはらいふりはらいて、心を他に転ぜしなり。山木の女《むすめ》の川島家に入り込みしと聞けるその時は、さすがに心地乱れぬ。しかもそはわが思う人のあずかり知る所ならざるべきを思いて、しいて心をそなたにふさげるなり。彼女《かれ》が身は湘南に病に臥《ふ》して、心は絶えず西に向かいぬ。
この世において最も愛すなる二人は、現に征清の役に従えるならずや。父中将は浪子が逗子に来たりしより間もなく、大元帥|纛下《とうか》に扈従《こじゅう》して広島におもむき、さらに遠く遼東《りょうとう》に向かわんとす。せめて新橋までと思
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