き病床に床ずれあらざれと願うなるべし。箱の内は何ぞ。莎縄《くぐなわ》を解けば、なかんずく好める泡雪梨《あわゆき》の大なるとバナナのあざらけきとあふるるまでに満ちたり。武男の心臓《むね》の鼓動は急になりぬ。
 「手紙も何もはいっていないかね?」
 彼をふるいこれを移せど寸の紙だになし。
 「ちょいとその油紙を」
 包み紙をとりて、わが名を書ける筆の跡を見るより、たちまち胸のふさがるを覚えぬ。武男はその筆を認《したた》めたるなり。
 彼女《かれ》なり。彼女《かれ》なり。彼女《かれ》ならずしてたれかあるべき。その縫える衣の一針ごとに、あとはなけれどまさしくそそげる千|行《こう》の涙《なんだ》を見ずや。その病をつとめて書ける文字の震えるを見ずや。
 人の去るを待ち兼ねて、武男は男泣きに泣きぬ。
       *
 もとより涸《か》れざる泉は今新たに開かれて、武男は限りなき愛の滔々《とうとう》としてみなぎるを覚えつ。昼は思い、夜《よ》は彼女《かれ》を夢みぬ。
 されど夢ほどに世は自由ならず。武男はもとより信じて思いぬ、二人《ふたり》が間は死だもつんざくあたわじと。いわんや区々たる世間の手続きをや。されどもその心を実にせんとしては、その区々たる手続き儀式が企望と現実の間に越ゆべからざる障壁として立てるを覚えざるあたわざりき。世はいかにすとも、彼女《かれ》は限りなくわが妻なり。されど母はわが名によって彼女《かれ》を離別し、彼女《かれ》が父は彼女《かれ》に代わって彼女《かれ》を引き取りぬ。世間の前に二人が間は絶えたるなり。平癒《へいゆ》を待って一たび東に帰り、母にあい、浪子を訪《と》うて心を語り、再び彼女《かれ》を迎えんか。いかに自ら欺くも、武男はいわゆる世間の義理体面の上よりさることのなすべくまたなしうべきを思い得ず、事は成らずして畢竟《ひっきょう》再び母とわれとの間を前にも増して乖離《かいり》せしむるに過ぎざるべきを思いぬ。母に逆らうの苦はすでになめたり。
 広い宇宙に生きて思わぬ桎梏《かせ》にわが愛をすら縛らるるを、歯がゆしと思えど、武男は脱《のが》るる路《みち》を知らず、やる方《かた》なき懊悩《おうのう》に日また日を送りつつ、ただ生死《しょうし》ともにわが妻は彼女《かれ》と思いてわずかに自ら慰めあわせて心に浪子をば慰めけるなり。
 今朝《けさ》も夢さめて武男が思える所は、これなりき。
 この朝軍医が例のごとく来たり診して、傷のいよいよ全癒に向かうに満足を表して去りし後、一封の書は東京なる母より届きぬ。書中には田崎帰りていささか安堵《あんど》せるを書き、かついささか話したき事もあれば、医師の許可《ゆるし》次第ひとまず都合して帰京すべしと書きたり。話したき事! もしくは彼がもっとも忌みかつ恐るるある事にはあらざるか。武男は打ち案じぬ。
 武男はついに帰京せざりき。
 十一月初旬、彼とひとしく黄海に手負いし彼が乗艦松島の修繕終わりて戦地に向かいしと聞くほどもなく、わずかに医師の許容《ゆるし》を得たる武男は、請うて運送船に便乗し、あたかも大連湾を取って同湾《ここ》に碇泊《ていはく》せる艦隊に帰り去りぬ。
 佐世保を出発する前日、武男は二通の書を投函《とうかん》せり。一はその母にあてて。

     四の一

 秋風吹き初《そ》めて、避暑の客は都に去り、病を養う客《ひと》ならでは留《とど》まる者なき九月|初旬《はじめ》より、今ここ十一月|初旬《はじめ》まで、日の温《あたた》かに風なき時をえらみて、五十あまりの婢《おんな》に伴なわれつつ、そぞろに逗子《ずし》の浜べを運動する一人《ひとり》の淑女ありき。
 やせにやせて砂に落つ影も細々といたわしき姿を、網|曳《ひ》く漁夫、日ごと浜べを歩む病客も皆見るに慣れて、あうごとに頭《かしら》を下げぬ。たれつたうともなくほのかにその身の上をば聞き知れるなりけり。
 こは浪子なりき。
 惜しからぬ命つれなくもなお永《なが》らえて、また今年の秋風を見るに及べるなり。
       *
 浪子は去る六月の初め、伯母《おば》に連れられて帰京し、思いも掛けぬ宣告を伝え聞きしその翌日より、病は見る見る重り、前後を覚えぬまで胸を絞って心血の紅《くれない》なるを吐き、医は黙し、家族《やから》は眉《まゆ》をひそめ、自己《おのれ》は旦夕《たんせき》に死を待ちぬ。命は実に一縷《いちる》につながれしなりき。浪子は喜んで死を待ちぬ。死はなかなかうれしかりき。何思う間もなくたちまち深井《しんせい》の暗黒《くらき》におちたるこの身は、何の楽しみあり、何のかいありて、世に永《なが》らえんとはすべき。たれを恨み、たれを恋う、さる念は形をなす余裕《ひま》もなくて、ただ身をめぐる暗黒の恐ろしくいとわしく、早くこのうちを脱《のが》れんと思うのみ。死は
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