響《おと》もなし。鶏《とり》鳴き、ふなうた遠く聞こゆ。
 武男は目を開いて笑《え》み、また目を閉じて思いぬ。
       *
 武男が黄海に負傷して、ここ佐世保の病院に身を託せしより、すでに一月余り過ぎんとす。
 かの時、砲台の真中《まなか》に破裂せし敵の大榴弾《だいりゅうだん》の乱れ飛ぶにうたれて、尻居《しりい》にどうと倒れつつはげしき苦痛に一時われを失いしが、苦痛のはなはだしかりしわりに、脚部の傷は二か所とも幸いに骨を避《よ》けて、その他はちとの火傷を受けたるのみ。分隊長は骸《がい》も留めず、同僚は戦死し、部下の砲員無事なるはまれなりしがなかに、不思議の命をとりとめて、この海軍病院に送られつ。最初《はじめ》はさすがに熱もはげしく上りて、ベッドの上のうわ言にも手を戟《ほこ》にして敵艦をののしり分隊長と叫びては医員を驚かししが、もとより血気盛んなる若者の、傷もさまで重きにあらず、時候も秋涼に向かえるおりから、熱は次第に下り、経過よく、膿腫《のうしょう》の患《うれい》もなくて、すでに一月あまり過ぎし今日《きょう》このごろは、なお幾分の痛みをば覚ゆれど、ともすれば石炭酸の臭《か》の満ちたる室をぬけ出《い》でて秋晴《しゅうせい》の庭におりんとしては軍医の小言をくうまでになりつ。この上はただ速《すみ》やかに戦地に帰らんと、ひたすら医の許容《ゆるし》を待てるなりき。
 思いすてて塵芥《ちりあくた》よりも軽かりし命は不思議にながらえて、熱去り苦痛薄らぎ食欲復するとともに、われにもあらで生を楽しむ心は動き、従って煩悩《ぼんのう》もわきぬ。蝉《せみ》は殻を脱げども、人はおのれを脱《のが》れ得ざれば、戦いの熱《ねつ》病《やまい》の熱に中絶《なかた》えし記憶の糸はその体《たい》のやや癒《い》えてその心の平生《へいぜい》に復《かえ》るとともにまたおのずから掀《かか》げ起こされざるを得ざりしなり。
 されど大疾よく体質を新たにするにひとしく、わずかに一紙を隔てて死と相見たるの経験は、武男が記憶を別様に新たならしめたり。激戦、及びその前後に相ついで起こりし異常の事と異常の感は、風雨のごとくその心を簸《ふる》い撼《うご》かしつ。風雨はすでに過ぎたれど、余波はなお心の海に残りて、浮かぶ記憶はおのずから異なる態をとりぬ。武男は母を憤らず、浪子をば今は世になき妻を思うらんようにその心の龕《がん》に祭りて、浪子を思うごとにさながら遠き野末の悲歌を聞くごとく、一種なつかしき哀《かな》しみを覚えしなり。
 田崎来たり見舞いぬ。武男はよりて母の近況を知りまたほのかに浪子の近況《ようす》を聞きぬ。(武男の気をそこなわんことを恐れて、田崎はあえて山木の娘の一条をばいわざりき)武男は浪子の事を聞いて落涙し、田崎が去りし後も、松風さびしき湘南《しょうなん》の別墅《べっしょ》に病める人の面影《おもかげ》は、黄海の戦いとかわるがわる武男が宵々《しょうしょう》の夢に入りつ。
 田崎が東に帰りし後|数日《すじつ》にして、いずくよりともなく一包みの荷物武男がもとに届きぬ。
       *
 武男は今その事を思えるなり。

     三の二

 武男が思えるはこれなり。
 一週|前《ぜん》の事なりき。武男は読みあきし新聞を投げやりて、ベッドの上にあくびしつつ、窓外を打ちながめぬ。同室の士官|昨日《きのう》退院して、室内には彼|一人《ひとり》なりき。時は黄昏《たそがれ》に近く、病室はほのぐらくして、窓外には秋雨滝のごとく降りしきりぬ。隣室の患者に電気かくるにやあらん。じじの響き絶え間なく雨に和して、うたた室内のわびしさを添えつ。聞くともなくその響《おと》に耳を仮して、目は窓に向かえば、吹きしぶく雨|淋漓《りんり》としてガラスにしたたり、しとどぬれたる夕暮れの庭はまだらに現われてまた消えつ。
 茫然《ぼうぜん》としてながめ入りし武男は、たちまち頭《かしら》より毛布《ケット》を引きかつぎぬ。
 五分ばかりたちて、人の入り来る足音して、
 「お荷物が届きました。……おやすみですか」
 頭《かしら》を出《いだ》せば、ベッドの横側に立てるは、小使いなり。油紙包みを抱《いだ》き、廿文字《にじゅうもんじ》にからげし重やかなる箱をさげて立ちたり。
 荷物? 田崎帰りてまだ幾日《いくか》もなきに、たが何を送りしぞ。
 「ああ荷物か。どこからだね?」
 小使いが読める差し出し人は、聞きも知らぬ人の名なり。
 「ちょっとあけてもらおうか」
 油紙を解けば、新聞、それを解けば紫の包み出《い》でぬ。包みを解けば出《い》でたり、ネルの単衣《ひとえ》、柔らかき絹物の袷《あわせ》、白縮緬《しろちりめん》の兵児帯《へこおび》、雪を欺く足袋《たび》、袖《そで》広き襦袢《じゅばん》は脱ぎ着たやすかるべく、真綿の肩ぶとんは長
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