《なんびと》に対しても用うる所の法なり。浪子もかつてその経験をなめぬ。しかしてその神経の敏に感の鋭かりしほどその苦痛を感ずる事も早かりき。お豊も今その経験をしいられぬ。しかしてその無為にして化する底《てい》の性質は、散弾の飛ぶもほとんどいずこの家に煎《い》る豆ぞと思い貌《がお》に過ぐるより、かの攻城砲は例よりもすみやかに持ち出《いだ》されざるを得ざりしなり。
 その心|悠々《ゆうゆう》として常に春がすみのたなびけるごとく、胸中に一点の物無《の》うして人我《にんが》の別定かならぬのみか、往々にして個人の輪郭消えて直ちに動植物と同化せんとし、春の夕べに庭などに立ちたらば、霊《たま》も体《たい》もそのまま霞《かすみ》のうちに融《と》け去りてすくうも手にはたまらざるべきお豊も恋に自己《おのれ》を自覚し初《そ》めてより、にわかに苦労というものも解し初《そ》めぬ。眠き目こすりて起き出《い》づるより、あれこれと追い使われ、その果ては小言|大喝《どなり》。もっとも陰口|中傷《あてこすり》は概して解かれぬままに鵜呑《うの》みとなれど、連《つる》べ放つ攻城砲のみはいかに超然たるお豊も当たりかねて、恋しき人の家《うち》ならずばとくにも逃げ出《いだ》しつべく思えるなり。さりながら父の戒め、おりおり桜川町の宅《うち》に帰りて聞く母の訓《おしえ》はここと、けなげにもなお攻城砲の前に陣取りて、日また日を忍びて過ぎぬ。時にはたまり兼ねて思いぬ、恋はかくもつらきものよ、もはや二度とは人を恋わじと。あわれむべきお豊は、川島未亡人のためにはその乱れがちなる胸の安全管にせられ、家内の婢僕《おんなおとこ》には日ながの慰みにせられ、恋しき人の顔を見ることも無《の》うして、生まれ出《い》でてより例《ためし》なき克己と辛抱をもって当てもなきものを待ちけるなり。
 お豊が来たりしより、武男が母は新たに一の懊悩《おうのう》をば添えぬ。失える玉は大にして、去れる婦《よめ》は賢なり。比較になるべき人ならねども、お豊が来たりて身近に使わるるに及びて、なすことごとに気に入るはなくて、武男が母は堅くその心をふさげるにかかわらず、ともすれば昔わがしかりもしののしりもせしその人を思い出《い》でぬ。光を※[#「※」は「媼」の「女」のかわりに「韋」、第3水準1−93−83、168−6]《つつ》める女の、言葉多からず起居《たちい》にしとやかなれば、見たる所は目より鼻にぬけるほど華手《はで》には見えねど、不なれながらもよくこちの気を飲み込みて機転もきき、第一心がけの殊勝なるを、図に乗っては口ぎたなくののしりながら、心の底にはあの年ごろでよく気がつくと暗に白状せしこともありしが、今目の前に同じ年ごろのお豊を置きて見れば、是非なく比較はとれて、事ごとに思うまじと思う人を思えるなり。されば日々《にちにち》気にくわぬ事の出《い》で来るごとに、春がすみの化けて出《い》でたる人間の名をお豊と呼ばれて目は細々と口も閉じあえずすわれるかたわらには、いつしか色少し蒼《あお》ざめて髪黒々としとやかなる若き婦人《おんな》の利発らしき目をあげてつくづくとわが顔をながめつつ「いかがでございます?」というようなる心地《ここち》して武男が母は思わずもわななかれつ。「じゃって、病気をすっがわるかじゃなっか」と幾たびか陳弁《いいわけ》すれど、なお妙に胸先《むなさき》に込みあげて来るものを、自己《おのれ》は怒りと思いつつ、果てはまた大声あげて、お豊に当たり散らしぬ。
 されば、広島の旗亭に、山木が田崎に向かいて娘お豊を武男が後妻《こうさい》にとおぼろげならず言い出《い》でしその時は、川島未亡人とお豊の間は去る六|月《げつ》における日清《にっしん》の間よりも危うく、彼出《いだ》すか、われ出《い》づるか、危機はいわゆる一髪にかかりしなりき。

     三の一

 枕《まくら》べ近き小鳥の声に呼びさまされて、武男は目を開きぬ。
 ベッドの上より手を伸ばして、窓かけ引き退《の》くれば、今向こう山を離れし朝日花やかに玻璃窓《はりそう》にさし込みつ。山は朝霧なお白けれど、秋の空はすでに蒼々《あおあお》と澄み渡りて、窓前一樹染むるがごとく紅《くれない》なる桜の梢《こずえ》をあざやかに襯《しん》し出《いだ》しぬ。梢に両三羽の小鳥あり、相語りつつ枝より枝におどれるが、ふと言い合わしたるように玻璃窓のうちをのぞき、半身をもたげたる武男と顔見合わし、驚きたって飛び去りし羽風《はかぜ》に、黄なる桜の一葉ばらりと散りぬ。
 われを呼びさませし朝《あした》の使いは彼なりけるよと、武男はほほえみつ、また枕につかんとして、痛める所あるがごとくいささか眉《まゆ》をひそめつ。すでにしてようやく身をベッドの上に安んじ、目を閉じぬ。
 朝《あした》静かにして、耳わずらわす
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