外にはげしかりしを見るに及んで、母は初めてわが違算を悟り、同時にいわゆる母なるものの決して絶対的権力をその子の上に有するものにあらざるを知りぬ。さきにはその子の愛の浪子に注ぐを一種不快の目をもて見たりしが、今は母の愛母の威光母の恩をもってしてなお死に瀕《ひん》したる一浪子の愛に勝つあたわざるを見るに及び、わが威権全くおちたるように、その子をば全く浪子に奪い去られしように感じて、かつは武男を怒り、かつは実家《さと》に帰り去れる後までもなお浪子をののしれるなり。
 なお一つその怒りを激せしものありき。そはおぼろげながら方寸のいずれにかおのが仕打ちの非なるを、知るとにはあらざれど、いささかその疑いのほのかにたなびけるなり。武男が憤りの底にはちとの道理なかりしか。わが仕打ちにはちとのわが領分を越えてその子を侵せし所はなかりしか。眠られぬ夜半《よわ》にひとり奥の間の天井にうつる行燈《あんどう》の影ながめつつ考うるとはなく思えば、いずくにか汝《なんじ》の誤りなり汝の罪なりとささやく声あるように思われて、さらにその胸の乱るるを覚えぬ。世にも強きは自ら是なりと信ずる心なり。腹立たしきは、あるいは人よりあるいはわが衷《うち》なるあるものよりわが非を示されて、われとわが良心の前に悔悟の膝《ひざ》を折る時なり。灸所《きゅうしょ》を刺せば、猛獣は叫ぶ。わが非を知れば、人は怒る。武男が母は、これがために抑《おさ》え難き怒りはなおさらに悶《もん》を加えて、いよいよ武男の怒るべく、浪子の悪《にく》むべきを覚えしなり。武男は席をけって去りぬ。一日また一日、彼は来たりて罪を謝するなく、わびの書だも送り来たらず。母は胸中の悶々を漏らすべきただ一の道として、その怒りをほしいままにして、わずかに自ら慰めつ。武男を怒り、浪子を怒り、かの時を思い出《い》でて怒り、将来を想《おも》うて怒り、悲しきに怒り、さびしきに怒り、詮方《せんかた》なきにまた怒り、怒り怒りて怒りの疲労《つかれ》にようやく夜《よ》も睡《ねぶ》るを得にき。
 川島家にては平常《つね》にも恐ろしき隠居が疳癪《かんしゃく》の近ごろはまたひた燃えに燃えて、慣れしおんなばらも幾たびか手荷物をしまいかける間《ま》に、朝鮮事起こりて豊島牙山《ほうとうがざん》の号外は飛びぬ。戦争に行くに告別《いとまごい》の手紙の一通もやらぬ不埒《ふらち》なやつと母は幾たびか怒りしが、世間の様子を聞けば、田舎《いなか》よりその子の遠征を見送らんと出《い》で来る老婆、物を贈り書を送りてその子を励ます母もありというに、子は親に怒り親は子を憤りて一通の書だに取りかわさず、彼は戦地にわれは帝都に、おのおの心に不快の塊《かたまり》をいだいて、もしこのままに永別となるならば、と思うとはなく、ほのかに感じたる武男が母は、ついにののしりののしり我《が》を折りて引きつづき二通の書を戦地にあるその子にやりぬ。
 折りかえして戦地より武男が返書は来たれり。返書来たりてより一月あまりにして、一通の電報は佐世保の海軍病院より武男が負傷を報じ来《こ》しぬ。さすがに母が電報をとりし手はわなわなと打ち震いつ。ほどなくその負傷は命《めい》に関するほどにもあらざる由を聞きたれど、なお田崎を遠く佐世保にやりてそのようすを見させしなりき。

     二の四

 田崎が佐世保より帰りて、子細に武男のようすを報ぜるより、母はやや安堵《あんど》の胸をなでけるが、なおこの上は全快を待ちて一応顔をも見、また戦争済みたらば武男がために早く後妻《こうさい》を迎うるの得策なるを思いぬ。かくして一には浪子を武男の念頭より絶ち、一には川島家の祀《まつり》を存し、一にはまた心の奥の奥において、さきに武男に対せる所行《しわざ》のやや暴に過ぎたりしその罪? 亡《ほろ》ぼしをなさんと思えるなり。
 武男に後妻を早く迎えんとは、浪子を離別に決せしその日より早くすでに母の胸中にわき出《い》でし問題なりき。それがために数多からぬ知己親類の嫁しうべき嬢子《むすめ》を心のうちにあれこれと繰り見しが、思わしきものもなくて、思い迷えるおりから、山木は突然娘お豊を行儀見習いと称して川島家に入れ込みぬ。武男が母とて白痴にもあらざれば、山木が底意は必ずしも知らざるにあらず。お豊が必ずしも知徳兼備の賢婦人ならざるをも知らざるにはあらざりき。されどおぼるる者は藁《わら》をもつかむ。武男が妻定めに窮したる母は、山木が望みを幸い、試みにお豊を預かれるなり。
 試験の結果は、田崎がほほえめるがごとし。試験者も受験者も共に満足せずして、いわば婢《おんな》ばらがうさはらしの種となるに終われるなり。
 初めは平和、次ぎに小口径の猟銃を用いて軽々《けいけい》に散弾を撒《ま》き、ついに攻城砲の恐ろしきを打ち出《いだ》す。こは川島未亡人が何人
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