えるを、父は制して、くれぐれも自愛し、凱旋《がいせん》の日には全快して迎えに来よと言い送りぬ。武男はあの後直ちに戦地に向かいて、現に連合艦隊の旗艦にありと聞く。秋雨秋風身につつがなく、戦闘の務めに服せらるるや、いかに。日々夜々《にちにちやや》陸に海に心は馳《は》せて、世には要なしといえる浪子もおどる心に新聞をば読みて、皇軍連勝、わが父息災、武男の武運長久を祈らぬ日はあらざりしなり。
 九月末にいたり、黄海の捷報《しょうほう》は聞こえ、さらに数日《すじつ》を経て負傷者のうちに浪子は武男の姓名を見|出《いだ》しぬ。浪子は一夜眠らざりき。幸いに東京なる伯母のその心をくめるありて、いずくより聞き得て報ぜしか、浪子は武男の負傷のはなはだしく重からずして現に佐世保の病院にある由を知りつ。生死《しょうし》の憂いを慰められしも、さてかなたを思いやりて、かくもしたしと思う事の多きにつけても、今の身の上の思うに任せぬ恨みはまたむらむらと胸をふさぎぬ。なまじいに夫妻の名義絶えしばかりに、まさしく心は通いつつ、彼は西に傷つき、われは東に病みて、行きて問うべくもあらぬのみか、明らさまにははがき一枚の見舞すら心に任せぬ身ならずや。かく思いてはやる方なくもだえしが、なおやみ難き心より思いつきて、浪子は病の間々《ひまひま》に幾を相手にその人の衣を縫い、その好める品をも取りそろえつつ、裂けんとすなる胸の思いの万分一も通えかしと、名をばかくして、はるかに佐世保に送りしなり。
 週去り週来たりて、十一月中旬、佐世保の消印ある一通の書は浪子の手に落ちたり。浪子はその書をひしと握りて泣きぬ。

     四の三

 打ち連れて土曜の夕べより見舞に来し千鶴子と妹《いもと》駒子《こまこ》は、今朝《けさ》帰り去りつ。しばしにぎやかなりし家の内《うち》また常のさびしきにかえりて、曇りがちなる障子のうち、浪子はひとり床にかけたる亡《な》き母の写真にむかいて坐《ざ》しぬ。
 今日、十一月十九日は亡き母の命日なり。はばかる人もなければ、浪子は手匣《てばこ》より母の写真取り出《い》でて床にかけ、千鶴子が持《も》て来し白菊のやや狂わんとするをその前に手向《たむ》け、午後には茶など点《い》れて、幾の昔語りに耳傾けしが、今は幾も看護婦も罷《まか》りて、浪子はひとり写真の前に残れるなり。
 母に別れてすでに十年《ととせ》にあまりぬ。十年《ととせ》の間、浪子は亡き母を忘るるの日なかりき。されど今日このごろはなつかしさの堪《た》え難きまで募りて、事ごとにその母を思えり。恋しと思う父は今遠く遼東にあり。継母は近く東京にあれど、中垣《なかがき》の隔て昔のままに、ともすれば聞きづらきことも耳に入る。亡き母の、もし亡き母の無事に永らえて居たまわば、かの苦しみも告げ、この悲しさも訴えて、かよわきこの身に負いあまる重荷もすこしは軽く思うべきに、何ゆえ見すてて逝《ゆ》きたまいしと思《おも》う下より涙はわきて、写真は霧を隔てしようにおぼろになりぬ。
 昨日《きのう》のようなれど、指を折れば十年《ととせ》たちたり。母上の亡くなりたもうその年の春なりき。自身《みずから》は八歳《やつ》、妹《いもと》は五歳《いつつ》(そのころは片言まじりの、今はあの通り大きくなりけるよ)桜模様の曙染《あけぼのぞめ》、二人そろうて美しと父上にほめられてうれしく、われは右妹は左母上を中に、馬車をきしらして、九段の鈴木《すずき》に撮《と》らししうちの一枚はここにかけたるこの写真ならずや。思えば十年《ととせ》は夢と過ぎて、母上はこの写真になりたまい、わが身は――。
 わが身の上は思わじと定めながらも、味気なき今の境涯はあいにくにありありと目の前に現われつ。思えば思うほどなんの楽しみもなんの望みもなき身は十重二十重《とえはたえ》黒雲に包まれて、この八畳の間は日影も漏れぬ死囚|牢《ろう》になりかわりたる心地《ここち》すなり。
 たちまち柱時計は家内《やうち》に響き渡りて午後|二点《にじ》をうちぬ。おどろかれし浪子はのがるるごとく次の間に立てば、ここには人もなくて、裏の方《かた》に幾と看護婦と語る声す。聞くともなく耳傾けし浪子は、またこの室を出《い》でて庭におり立ち、枝折戸《しおりど》あけて浜に出《い》でぬ。
 空は曇りぬ。秋ながらうっとりと雲立ち迷い、海はまっ黒に顰《ひそ》みたり。大気は恐ろしく静まりて、一陣の風なく、一|波《ぱ》だに動かず、見渡す限り海に帆影《はんえい》絶えつ。
 浪子は次第に浜を歩み行きぬ。今日は網曳《あびき》する者もなく、運動する客《ひと》の影も見えず。孩《こ》を負える十歳《とお》あまりの女の子の歌いながら貝拾えるが、浪子を見てほほえみつつ頭《かしら》を下げぬ。浪子は惨として笑《え》みつ。またうっとりと思いつづけて、うつむき
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