いい香《かおり》! 草花の香でしょうか、あ、雲雀《ひばり》が鳴いてますよ」
 「さあ、お鮓《すし》をいただいてお腹《なか》ができたから、もうひとかせぎして来ましょうか、ねエ女中さん」と姥《うば》の幾は宿の女を促し立てて、また蕨採りにかかりぬ。
 「すこし残しといてくれんとならんぞ――健《まめ》な姥《ばあ》じゃないか、ねエ浪さん」
 「本当に健《まめ》でございますよ」
 「浪さん、くたびれはしないか」
 「いいえ、ちっとも今日は疲れませんの、わたくしこんなに楽しいことは始めて!」
 「遠洋航海なぞすると随分いい景色《けしき》を見るが、しかしこんな高い山の見晴らしはまた別だね。実にせいせいするよ。そらそこの左の方に白い壁が閃々《ちらちら》するだろう。あれが来がけに浪さんと昼飯を食った渋川《しぶかわ》さ。それからもっとこっちの碧《あお》いリボンのようなものが利根川《とねがわ》さ。あれが坂東太郎《ばんどうたろう》た見えないだろう。それからあの、赤城《あかぎ》の、こうずうと夷《たれ》とる、それそれ煙が見えとるだろう、あの下の方に何だかうじゃうじゃしてるね、あれが前橋《まえばし》さ。何? ずっと向こうの銀の針《びん》のようなの? そうそう、あれはやっぱり利根の流れだ。ああもう先はかすんで見えない。両眼鏡を持って来るところだったねエ、浪さん。しかし霞《かすみ》がかけて、先がはっきりしないのもかえっておもしろいかもしれん」
 浪子はそっと武男の膝《ひざ》に手を投げて溜息《といき》つき
 「いつまでもこうしていとうございますこと!」
 「黄色の蝶二つ浪子の袖をかすめてひらひらと飛び行きしあとより、さわさわと草踏む音して、帽子かぶりし影法師だしぬけに夫婦の眼前《めさき》に落ち来たりぬ。
 「武男君」
 「やあ! 千々岩《ちぢわ》君か。どうしてここに?」

     三の二

 新来の客は二十六七にや。陸軍中尉の服を着たり。軍人には珍しき色白の好男子。惜しきことには、口のあたりどことなく鄙《いや》しげなるところありて、黒水晶のごとき目の光鋭く、見つめらるる人に不快の感を起こさすが、疵《きず》なるべし。こは武男が従兄《いとこ》に当たる千々岩安彦《ちぢわやすひこ》とて、当時参謀本部の下僚におれど、腕ききの聞こえある男なり。
 「だしぬけで、びっくりだろう。実は昨日《きのう》用があって高崎《たかさき》に泊まって、今朝《けさ》渋川まで来たんだが、伊香保はひと足と聞いたから、ちょっと遊びに来たのさ。それから宿に行ったら、君たちは蕨《わらび》採りの御遊《ぎょゆう》だと聞いたから、路《みち》を教《おそ》わってやって来たんだ。なに、明日《あす》は帰らなけりゃならん。邪魔に来たようだな。はッはッ」
 「ばかな。――君それから宅《うち》に行ってくれたかね」
 「昨朝《きのう》ちょっと寄って来た。叔母様《おばさん》も元気でいなさる。が、もう君たちが帰りそうなものだってしきりとこぼしていなすッたッけ。――赤坂《あかさか》の方でもお変わりもありませんです」と例の黒水晶の目はぎらりと浪子の顔に注ぐ。
 さっきからあからめし顔はひとしお紅《あこ》うなりて浪子は下向きぬ。
 「さあ、援兵が来たからもう負けないぞ。陸海軍一致したら、娘子《じょうし》軍百万ありといえども恐るるに足らずだ。――なにさ、さっきからこの御婦人方がわが輩|一人《ひとり》をいじめて、やれ蕨の取り方が少ないの、採ったが蕨じゃないだの、悪口《あっこう》して困ったンだ」と武男は顋《あご》もて今来し姥《うば》と女中をさす。
 「おや、千々岩様――どうしていらッしゃいまして?」と姥《うば》はびっくりした様子にて少し小鼻にしわを寄せつ。
 「おれがさっき電報かけて加勢に呼んだンだ」
 「おほほほ、あんな言《こと》をおしゃるよ――ああそうで、へえ、明日《あす》はお帰り遊ばすンで。へえ、帰ると申しますと、ね、奥様、お夕飯《ゆう》のしたくもございますから、わたくしどもはお先に帰りますでございますよ」
 「うん、それがいい、それがいい。千々岩君も来たから、どっさりごちそうするンだ。そのつもりで腹を減らして来るぞ。ははははは。なに、浪さんも帰る? まあいるがいいじゃないか。味方がなくなるから逃げるンだな。大丈夫さ、決していじめはしないよ。あはははは」
 引きとめられて浪子は居残れば、幾は女中《おんな》と荷物になるべき毛布《ケット》蕨などとりおさめて帰り行きぬ。
 あとに三人《みたり》はひとしきり蕨を採りて、それよりまだ日も高ければとて水沢《みさわ》の観音に詣《もう》で、さきに蕨を採りし所まで帰りてしばらく休み、そろそろ帰途に上りぬ。
 夕日は物聞山《ものききやま》の肩より花やかにさして、道の左右の草原は萌黄《もえぎ》の色燃えんとする
前へ 次へ
全79ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング