のおためにと心に思いはあふるれど、気がつくほどにすれば、母は自分の領分に踏み込まれたるように気をわるくするがつらく、光を※[#「※」は「媼」の「女」のかわりに「韋」、第3水準1−93−83、15−15]《つつ》みて言《ことば》寡《すくな》に気もつかぬ体《てい》に控え目にしていれば、かえって意地わるのやれ鈍物のと思われ言わるるも情けなし。ある時はいささかの間違いより、流るるごとき長州弁に英国仕込みの論理法もて滔々《とうとう》と言いまくられ、おのれのみかは亡《な》き母の上までもおぼろげならずあてこすられて、さすがにくやしくかんだ唇《くちびる》開かんとしては縁側にちらりと父の影見ゆるに口をつぐみ、あるいはまたあまり無理なる邪推されては「母《おっか》さまもあんまりな」と窓かけの陰に泣いたることもありき。父ありというや。父はあり。愛する父はあり。さりながら家《うち》が世界の女の兒《こ》には、五人の父より一人《ひとり》の母なり。その母が、その母がこの通りでは、十年の間には癖もつくべく、艶《つや》も失《う》すべし。「本当に彼女《あのこ》はちっともさっぱりした所がない、いやに執念《しゅうねい》な人だよ」と夫人は常にののしりぬ。ああ土鉢《どばち》に植えても、高麗交趾《こうらいこうち》の鉢に植えても、花は花なり、いずれか日の光を待たざるべき。浪子は実に日陰の花なりけり。
さればこのたび川島家と縁談整いて、輿入《こしいれ》済みし時は、浪子も息をつき、父中将も、継母も、伯母も、幾《いく》も、皆それぞれに息をつきぬ。
「奥様(浪子の継母)は御自分は華手《はで》がお好きなくせに、お嬢様にはいやアな、じみなものばかり、買っておあげなさる」とつねにつぶやきし姥《うば》の幾が、嫁入りじたくの薄きを気にして、先奥様《せんおくさま》がおいでになったらとかき口説《くど》いて泣きたりしも、浪子はいそいそとしてわが家《や》の門《かど》を出《い》でぬ。今まで知らぬ自由と楽しさのこのさきに待つとし思えば、父に別るる哀《かな》しさもいささか慰めらるる心地《ここち》して、いそいそとして行きたるなり。
三の一
伊香保より水沢《みさわ》の観音《かんのん》まで一里あまりの間は、一条《ひとすじ》の道、蛇《へび》のごとく禿山《はげやま》の中腹に沿うてうねり、ただ二か所ばかりの山の裂け目の谷をなせるに陥りてまた這《は》い上がれるほかは、目をねむりても行かるべき道なり。下は赤城《あかぎ》より上毛《じょうもう》の平原を見晴らしつ。ここらあたりは一面の草原なれば、春のころは野焼きのあとの黒める土より、さまざまの草|萱《かや》萩《はぎ》桔梗《ききょう》女郎花《おみなえし》の若芽など、生《は》え出《い》でて毛氈《もうせん》を敷けるがごとく、美しき草花その間に咲き乱れ、綿帽子着た銭巻《ぜんまい》、ひょろりとした蕨《わらび》、ここもそこもたちて、ひとたびここにおり立たば春の日の永《なが》きも忘るべき所なり。
武男《たけお》夫婦は、今日《きょう》の晴れを蕨狩《わらびが》りすとて、姥《うば》の幾《いく》と宿の女中を一人《ひとり》つれて、午食後《ひるご》よりここに来つ。はやひとしきり採りあるきて、少しくたびれが来しと見え、女中に持たせし毛布《けっと》を草のやわらかなるところに敷かせて、武男は靴《くつ》ばきのままごろりと横になり、浪子《なみこ》は麻裏草履《あさうら》を脱ぎ桃紅色《ときいろ》のハンケチにて二つ三つ膝《ひざ》のあたりをはらいながらふわりとすわりて、
「おおやわらか! もったいないようでございますね」
「ほほほお嬢――あらまた、御免遊ばせ、お奥様のいいお顔色《いろ》におなり遊ばしましたこと! そしてあんなにお唱歌なんぞお歌い遊ばしましたのは、本当にお久しぶりでございますねエ」と幾はうれしげに浪子の横顔をのぞく。
「あんまり歌ってなんだか渇《かわ》いて来たよ」
「お茶を持ってまいりませんで」と女中は風呂敷《ふろしき》解きて夏蜜柑《なつみかん》、袋入りの乾菓子《ひがし》、折り詰めの巻鮓《まきずし》など取り出す。
「何、これがあれば茶はいらんさ」と武男はポッケットよりナイフ取り出して蜜柑をむきながら「どうだい浪さん、僕の手ぎわには驚いたろう」
「あんな言《こと》をおっしゃるわ」
「旦那《だんな》様のおとり遊ばしたのには、杪※[※]は「木へん+羅」、第4水準2−15−82、17−18」《へご》がどっさりまじっておりましてございますよ」と、女中が口を出す。
「ばかを言うな。負け惜しみをするね。ははは。今日は実に愉快だ。いい天気じゃないか」
「きれいな空ですこと、碧々《あおあお》して、本当に小袖《こそで》にしたいようでございますね」
「水兵の服にはなおよかろう」
「おお
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