ゆまず、目まじろがず、口を漏るる薩弁《さつべん》の淀《よど》みもやらぬは、戯れにあらず、狂気せしにもあらで、まさしく分別の上と思えば、驚きはまた胸を衝《つ》く憤りにかわりつ。あまり勝手な言条《いいぶん》と、罵倒《ばとう》せんずる言《こと》のすでに咽《のど》もとまで出《い》でけるを、実の娘とも思う浪子が一生の浮沈の境と、わずかに飲み込みて、まず問いつ、また説きつ、なだめもし、請いもしつれど、わが事をのみ言い募る先方の耳にはすこしも入らで、かえってそれは入らぬ繰り言《ごと》、こっちの話を浪の実家《さと》に伝えてもらえば要は済むというふうの明らかに見ゆれば、話聞く聞く病める姪《めい》の顔、亡き妹《いもうと》――浪子の実母――の臨終、浪子が父中将の傷心、など胸のうちにあらわれ来たり乱れ去りて、情けなく腹立たしき涙のわれ知らず催し来たれる夫人はきっと容《かたち》をあらため、当家においては御両家の結縁《けちえん》のためにこそ御加勢もいたしつれ、さる不義非情の御加勢は決してできぬこと、良人《おっと》に相談するまでもなくその義は堅くお断わり、ときっぱりとはねつけつ。
忿然《ふんぜん》として加藤の門を出《い》でたる武男が母は、即夜手紙して山木を招きつ。(篤実なる田崎にてはらち明かずと思えるなり)。おりもおりとて主人の留守に、かつはまどい、かつは怒り、かつは悲しめる加藤子爵夫人と千鶴子と心を三方に砕きつつ、母はさ言えどいかにも武男の素意にあるまじと思うより、その乗艦の所在を糺《ただ》して至急の報を発せる間《ま》に、いらちにいらちし武男が母は早|直接《じき》談判と心を決して、その使節を命ぜられたる山木の車はすでに片岡家の門にかかりしなり。
八の一
山木が車赤坂|氷川町《ひかわちょう》なる片岡中将の門を入れる時、あたかも英姿|颯爽《さっそう》たる一将軍の栗毛《くりげ》の馬にまたがりつつ出《い》で来たれるが、車の駆け込みし響《おと》にふと驚きて、馬は竿立《さおだ》ちになるを、馬上の将軍は馬丁をわずらわすまでもなく、※[#「※」は「僵」の「にんべん」の代わりに「革へん」、第3水準1−93−81、127−10]《たづな》を絞りて容易に乗り静めつつ、一回圏を画《えが》きて、戞々《かつかつ》と歩ませ去りぬ。
みごとの武者ぶりを見送りて、声《こわ》づくろいしていかめしき中将の玄関にかかれる山木は、幾多の権門をくぐりなれたる身の、常にはあるまじく胆《たん》落つるを覚えつ。昨夜川島家に呼ばれて、その使命を託されし時も、頭《かしら》をかきつるが、今現にこの場に臨みては彼は実に大なりと誇れる胆《きも》のなお小にして、その面皮のいまだ十分に厚からざるを憾《うら》みしなり。
名刺一たび入り、書生二たび出《い》でて、山木は応接間に導かれつ。テーブルの上には清韓《しんかん》の地図一葉広げられたるが、まだ清めもやらぬ火皿《ひざら》のマッチ巻莨《シガー》のからとともに、先座の話をほぼ想《おも》わしむ。げにも東学党の乱、清国出兵の報、わが出兵のうわさ、相ついで海内《かいだい》の注意一に朝鮮問題に集まれる今日《きょう》このごろは、主人中将も予備にこそおれおのずから事多くして、またかの英文読本を手にするの暇《いとま》あるべくも思われず。
山木が椅子《いす》に倚《よ》りて、ぎょろぎょろあたりをながめおる時、遠雷の鳴るがごとき足音次第に近づきて、やがて小山のごとき人はゆるやかに入りて主位につきぬ。山木は中将と見るよりあわてて起《た》てる拍子に、わがかけて居し椅子をば後ろざまにどうと蹴《け》倒しつ。「あっ、これは疎※[#「※」は「つつみがまえ」+「夕」、第3水準1−14−76、128−6]《そそう》を」と叫びつつ、あわてて引き起こし、しかる後二つ三つ四つ続けざまに主人に向かいて叮重《ていちょう》に辞儀をなしぬ。今の疎忽《そこつ》のわびも交れるなるべし。
「さあ、どうかおかけください。あなたが山木|君《さん》――お名は承知しちょったですが」
「はッ。これは初めまして……手前は山木|兵造《ひょうぞう》と申す不調法者で(句ごとに辞儀しつ、辞儀するごとに椅子はききときしりぬ、仰せのごとくと笑えるように)……どうか今後ともごひいきを……」
避け得られぬ閑話の両三句、朝鮮のうわさの三両句――しかる後中将は言《ことば》をあらためて、山木に来意を問いつ。
山木は口を開かんとしてまず片唾《かたず》をのみ、片唾をのみてまた片唾をのみ、三たび口を開かんとしてまた片唾をのみぬ。彼はつねに誇るその流滑自在なる舌の今日に限りてひたと渋るを怪しめるなり。
八の二
山木はわずかに口を開き、
「実は今日《こんにち》は川島家の御名代《ごみょうだい》でまかりいでましたので」
思い
前へ
次へ
全79ページ中44ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング