でもいいとして、御隠居の用をよく達《た》すのだ。いいかい。第二にはだ、今のように何といえばすぐふくれるようじゃいけない、何でもかでも負けるのだ。いいかい。しかられても負ける、無理をいわれても負ける、こっちがよけりゃなお負ける、な。そうすると先方《むこう》で折れて来る、な、ここがよくいう負けて勝つのだ。決して腹を立っちゃいかん、よしか。それから第三にはだ、――これは少し早過ぎるが、ついでだからいっとくがの、無事に婚礼が済んだッて、いいかい、決して武男さんと仲がよすぎちゃいけない。何さ、内々はどうでもいいが、表面《おもてむき》の所をよく注意しなけりゃいけんぜ。姑御《しゅうとご》にはなれなれしくさ、なるたけ近くして、婿殿にゃ姑の前で毒にならんくらいの小悪口《わるくち》もつくくらいでなけりゃならぬ。おかしいもンで、わが子の妻《さい》だから夫婦仲がいいとうれしがりそうなもんじゃが、実際あまりいいと姑の方ではおもしろく思わぬ。まあ一種の嫉妬《しっと》――わがままだな。でなくも、あまり夫婦仲がいいと、自然姑の方が疎略になる――と、まあ姑の方では思うだな。浪子さんも一つはそこでやりそこなったかもしれぬ。仲がよすぎての――おッと、そう角が生《は》えそうな顔しちゃいけない、なあお豊、今いった負けるのはそこじ痰シ。ところで、いいかい、なるたけ注意して、この女《こ》は真《ほん》にわたしの※[#「※」は「おんなへん+息」、第4水準2−5−70、124−14]《よめ》だ、子息《せがれ》の妻《さい》じゃない、というように姑に感じさせなけりゃならん。姑※[#「※」は「おんなへん+息」、第4水準2−5−70、124−15]《しゅうとよめ》のけんかは大抵この若夫婦の仲がよすぎて、姑に孤立の感を起こさすから起こるのが多いて。いいかい、卿《おまえ》は御隠居の※[#「※」は「おんなへん+息」、第4水準2−5−70、124−16]だ、とそう思っていなけりゃならん。なあに御隠居が追っつけめでたくなったあとじゃ、武男さんの首ッ玉にかじりついて、ぶら下がッてあるいてもかまわンさ。しかし姑の前では、決して武男さんに横目でもつかっちゃならんぞ。まだあるが、それはいざ乗り込みの時にいって聞かす。この三か条はなかなか面倒じゃが、しかし卿《おまえ》も恋しい武男さんの奥方になろうというンじゃないか、辛抱が大事じゃぞ。明日《あす》といわずと今夜からそのけいこを始めるのだ」
 言葉のうちに、襖《ふすま》開きて、小間使いの竹「御返事がいるそうでございます」
 と一封の女筆《にょひつ》の手紙を差し出《いだ》しぬ。
 封をひらきてすうと目を通したる山木は、手紙を妻《さい》と娘の目さきにひけらかしつつ
 「どうだ、川島の御隠居からすぐ来てくれは!」

     七の三

 武男が艦隊演習におもむける二週の後、川島家より手紙して山木を招ける数日前《すじつぜん》、逗子《ずし》に療養せる浪子はまた喀血《かっけつ》して、急に医師を招きつ。幸いにして喀血は一回にしてやみ、医師は当分事なかるべきを保証せしが、この報は少なからぬ刺激を武男が母に与えぬ。間《あわい》両三日を置きて、門を出《い》づることまれなる川島未亡人の尨大《ぼうだい》なる体《たい》は、飯田町《いいだまち》なる加藤家の門を入りたり。
 離婚問題の母子《おやこ》の間に争われつるかの夜《よ》、武男が辞色の思うにましてはげしかりしを見たる母は、さすがにその請いに任せて彼が帰り来るまでは黙止《もだ》すべき約をばなしつれど、よしそれまでまてばとて武男が心は容易に移すべくもあらずして、かえって時たつほど彼の愛着のきずなはいよいよ絶ち難かるべく、かつ思いも寄らぬ障礙《しょうげ》の出《い》で来たるべきを思いしなり。さればその子のいまだ帰らざるに乗じて、早く処置をつけ置くのむしろ得策なるを思いしが、さりとてさすがにかの言質《ことじち》もありこの顧慮もまたなきにあらずして、その心はありながら、いまだ時々来てはあおる千々岩を満足さすほどの果断なる処置をばなさざるなり。浪子が再度喀血の報を聞くに及びて、母は決然としてかつて媒妁《ばいしゃく》をなしし加藤家を訪《と》いたるなり。
 番町と飯田町といわば目と鼻の間に棲《す》みながら、いつなりしか媒妁の礼に来しよりほとんど顔を見せざりし川島未亡人が突然来訪せし事の尋常にあらざるべきを思いつつ、ねんごろに客間に請《しょう》ぜし加藤夫人もその話の要件を聞くよりはたと胸をつきぬ。そのかつて片岡川島両家を結びたる手もて、今やそのつなげる糸を絶ちくれよとは!
 いかなる顔のいかなる口あればさる事は言わるるかと、加藤夫人は今さらのように客のようすを打ちながめぬ。見ればいつにかわらぬ肥満の体格、太き両手を膝《ひざ》の上に組みて、膚《はだえ》た
前へ 次へ
全79ページ中43ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング