がけずといわんがごとく、主人の中将はその体格《がら》に似合わぬ細き目を山木が面《おもて》に注ぎつ。
「はあ?」
「実は川島の御隠居がおいでになるところでございますが――まあ私《わたくし》がまかりいでました次第で」
「なるほど」
山木はしきりににじみ出《い》づる額の汗押しぬぐいて「実は加藤様からお話を願いたいと存じましたンでございますが、少し都合もございまして――私《わたくし》がまかりいでました次第で」
「なるほど。で御要は?」
「その要と申しますのは、――申し兼ねますが、その実は川島家《あちら》の奥様浪子様――」
主人中将の目はまばたきもせずしばし話者《あなた》の面《おもて》を打ちまもりぬ。
「はあ?」
「その、浪子様《わかおくさま》でございますが、どうもかような事は実もって申し上げにくいお話でございますが、御承知どおりあの御病気につきましては、手前ども――川島でも、よほど心配をいたしまして、近ごろでは少しはお快い方《かた》ではございますが――まあおめでとうございますが――」
「なるほど」
「手前どもから、かような事は誠に申し上げられぬのでございますが、はなはだ勝手がましい申し条《ぶん》でございますが、実は御病気がらではございますし――御承知どおり川島の方でも家族と申しましても別にございませんし、男子と申してはまず当主の武男――様《さん》だけでございますンで、実は御隠居もよほど心配もいたしておりまして、どうも実もって申しにくい――いかにも身勝手な話でございますが、御病気が御病気で、その、万一伝染――まあそんな事もめったにございますまいが――しかしどちかと申しますとやはりその、その恐れもないではございませンので、その、万一武男――川島の主人に異変でもございますと、まあ川島家も断絶と申すわけで、その断絶いたしてもよろしいようなものでございますが、何分にもその、実もってどうもその、誠に済みませんがその、そこの所をその、御病気が御病気――」
言いよどみ言いそそくれて一句一句に額より汗を流せる山木が顔うちまもりて黙念と聞きいたる主人中将は、この時|右手《めて》をあげ、
「よろしい。わかいました。つまり浪が病気が険呑《けんのん》じゃから、引き取ってくれと、おっしゃるのじゃな。よろしい。わかいました」
うなずきて、手もと近く燃えさがれる葉巻をテーブルの上なる灰皿にさし置きつつ、腕を組みぬ。
山木は踏み込めるぬかるみより手をとりて引き出されしように、ほっと息つきて、額上の汗をぬぐいつ。
「さようでございます。実もって申し上げにくい事でございますが、その、どうかそこの所をあしからず――」
「で、武男君はもう帰られたですな?」
「いや、まだ帰りませんでございますが、もちろんこれは同人《ほんにん》承知の上の事でございまして、どうかあしからずその――」
「よろしい」
中将はうなずきつ。腕を組みて、しばし目を閉じぬ。思いのほかにたやすくはこびけるよ、とひそかに笑坪《えつぼ》に入りて目をあげたる山木は、目を閉じ口を結びてさながら睡《ねぶ》れるごとき中将の相貌《かお》を仰ぎて、さすがに一種の畏《おそ》れを覚えつ。
「山木|君《さん》」
中将は目をみひらきて、山木の顔をしげしげと打ちながめたり。
「はッ」
「山木|君《さん》、あなたは子を持っておいでかな」
その問いの見当を定めかねたる山木はしきりに頭《かしら》を下げつつ「はッ。愚息《せがれ》が一人《ひとり》に――娘が一人でございまして、何分お引き立てを――」
「山木|君《さん》、子というやつはかわい者《もの》じゃ」
「はッ?」
「いや、よろしい。承知しました。川島の御隠居にそういってください、浪は今日引き取るから、御安心なさい。――お使者《つかい》御苦労じゃった」
使命を全うせしをよろこぶか、さすがに気の毒とわぶるにか、五つ六つ七八つ続けざまに小腰を屈《かが》めて、どぎまぎ立ち上がる山木を、主人中将は玄関まで送り出して、帰り入る書斎の戸をばはたと閉《さ》したり。
九の一
逗子の別荘にては、武男が出発後は、病める身の心細さやるせなく思うほどいよいよ長き日一日《ひまたひ》のさすがに暮らせば暮らされて、はや一月あまりたちたれば、麦刈り済みて山百合《やまゆり》咲くころとなりぬ。過ぐる日の喀血《かっけつ》に、一たびは気落ちしが、幸いにして医師《いしゃ》の言えるがごとくそのあとに著しき衰弱もなく、先日|函館《はこだて》よりの良人《おっと》の書信《てがみ》にも帰来《かえり》の近かるべきを知らせ来つれば、よし良人を驚かすほどにはいたらぬとも、喀血の前ほどにはなりおらではと、自ら気を励まし浪子は薬用に運動に細かに医師《いしゃ》の戒めを守りて摂生しつつ、
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