に思えることもありき。さりながら浪子がほとんど一月にわたるぶらぶら病のあと、いよいよ肺結核の忌まわしき名をつけられて、眼前に喀血《かっけつ》の恐ろしきを見るに及び、なおその病の少なからぬ費用をかけ時日を費やしてはかばかしき快復を見ざるを見るに及び、失望といわんか嫌厭《けんえん》と名づけんか自ら分《わか》つあたわざるある一念の心底に生《は》え出《い》でたるを覚えつ。彼を思い出《い》で、これを思いやりつつ、一種不快なる感情の胸中に※[#「※」は「酉+上に囚、下に皿」、第3水準1−92−88、107−4]醸《うんじょう》するに従って、武男が母は上《うわ》うちおおいたる顧慮の一塊一塊融け去りてかの一念の驚くべき勢いもて日々長じ来たるを覚えしなり。
千々岩は分明《ぶんみょう》に叔母が心の逕路《けいろ》をたどりて、これよりおりおり足を運びては、たださりげなく微雨軽風の両三点を放って、その顧慮をゆるめ、その萌芽《ほうが》をつちかいつつ、局面の近くに発展せん時を待ちぬ。そのおりおり武男の留守をうかがいて川島家に往来することのおぼろにほかに漏れしころは、千々岩はすでにその所作の大要をおえて、早くも舞台より足を抜きつつ、かの山木に向かい近きに起こるべき活劇の予告《まえぶれ》をなして、あらかじめ祝杯をあげけるなり。
六の一
五月|初旬《はじめ》、武男はその乗り組める艦《ふね》のまさに呉《くれ》より佐世保《させほ》におもむき、それより函館《はこだて》付近に行なわるべき連合艦隊の演習に列せんため引きかえして北航するはずなれば、かれこれ四五十日がほどは帰省の機会《おり》を得ざるべく、しばしの告別《いとま》かたがた、一夜《あるよ》帰京して母の機嫌《きげん》を伺いたり。
近ごろはとかく奥歯に物のはさまりしように、いつ帰りても機嫌よからぬ母の、今夜《こよい》は珍しくにこにこ顔を見せて、風呂《ふろ》を焚《た》かせ、武男が好物の薩摩汁《さつまじる》など自ら手をおろさぬばかり肝いりてすすめつ。元来あまり細かき事には気をとめぬ武男も、ようすのいつになくあらたまれるを不思議――とは思いしが、何歳《いくつ》になってもかあいがられてうれしからぬ子はなきに、父に別れてよりひとしお母なつかしき武男、母の機嫌の直れるに心うれしく、快く夜食の箸《はし》をとりしあとは、湯に入りてはらはら降り出せし雨の音を聞きつつ、この上の欲には浪子が早く全快してここにわが帰りを待っているようにならばなど今日立ち寄りて来し逗子の様子思い浮かべながら、陶然とよき心地《ここち》になりて浴を出《い》で、使女《おんな》が被《はお》る平生服《ふだんぎ》を無造作に引きかけて、葉巻握りし右手《めて》の甲に額をこすりながら、母が八畳の居間に入り来たりぬ。
小間使いに肩|揉《ひね》らして、羅宇《らう》の長き煙管《きせる》にて国分《こくぶ》をくゆらしいたる母は目をあげ「おお早上がって来たな。ほほほほほ、おとっさまがちょうどそうじゃったが――そ、その座ぶとんにすわッがいい。――松、和女郎《おまえ》はもうよかで、茶を入れて来なさい」と自ら立って茶棚《ちゃだな》より菓子鉢を取り出《い》でつ。
「まるでお客様ですな」
武男は葉巻を一吸い吸いて碧《あお》き煙《けぶり》を吹きつつ、うちほほえむ。
「武どん、よう帰ったもった。――実はその、ちっと相談もあるし、是非《ぜっひ》帰ってもらおうと思ってた所じゃった。まあ帰ってくれたで、いい都合ッごあした。逗子――寄って来《き》つろの?」
逗子はしげく往来するを母のきらうはよく知れど、まさかに見え透いたるうそも言いかねて、
「はあ、ちょっと寄って来ました。――大分《だいぶ》血色も直りかけたようです。母《おっか》さんに済まないッて、ひどく心配していましたッけ」
「そうかい」
母はしげしげ武男の顔をみつめつ。
おりから小間使いの茶道具を持《も》て来しを母は引き取り、
「松、御身《おまえ》はあっち行っていなさい。そ、その襖《ふすま》をちゃんとしめて――」
六の二
手ずから茶をくみて武男にすすめ、われも飲みて、やおら煙管《きせる》をとりあげつ。母はおもむろに口を開きぬ。
「なあ武どん、わたしももう大分《だいぶ》弱いましたよ。去年のリュウマチでがっつり弱い申した。昨日《きのう》お墓まいりしたばかいで、まだ肩腰が痛んでな。年が寄ると何かと心細うなッて困いますよ――武どん、卿《おまえ》からだを大事にしての、病気をせん様《ごと》してくれんとないませんぞ」
葉巻の灰をほとほと火鉢の縁にはたきつつ、武男はでっぷりと肥えたれどさすがに争われぬ年波の寄る母の額を仰ぎ「私《わたくし》は始終|外《ほか》にいますし、何もかも母《おっか》さんが総理大臣ですからな――
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