浪でも達者ですといいですが。あれも早くよくなって母《おっか》さんのお肩を休めたいッてそういつも言ってます」
 「さあ、そう思っとるじゃろうが、病気が病気でな」
 「でも、大分|快方《いいほう》になりましたよ。だんだん暖かくはなるし、とにかく若い者ですからな」
 「さあ、病気が病気じゃから、よく行けばええがの、武どん――医師《おいしゃ》の話じゃったが、浪どんの母御《かさま》も、やっぱい肺病で亡《な》くなッてじゃないかの?」
 「はあ、そんなことをいッてましたがね、しかし――」
 「この病気は親から子に伝わッてじゃないかい?」
 「はあ、そんな事を言いますが、しかし浪のは全く感冒《かぜ》から引き起こしたンですからね。なあに、母《おっか》さん用心次第です、伝染の、遺伝のいうですが、実際そういうほどでもないですよ。現に浪のおとっさんもあんな健康《じょうぶ》な方《かた》ですし、浪の妹――はああのお駒《こま》さんです――あれも肺のはの字もないくらいです。人間は医師《いしゃ》のいうほど弱いものじゃありません、ははははは」
 「いいえ、笑い事じゃあいません」と母はほとほと煙管《きせる》をはたきながら
 「病気のなかでもこの病気ばかいは恐ろしいもンでな、武どん。卿《おまえ》も知っとるはずじゃが、あの知事の東郷《とうごう》、な、卿《おまえ》がよくけんかをしたあの児《こ》の母御《かさま》な、どうかい、あの母《ひと》が肺病で死んでの、一昨年《おととし》の四月じゃったが、その年の暮れに、どうかい、東郷さんもやっぱい肺病で死んで、ええかい、それからあの息子《むすこ》さん――どこかの技師をしとったそうじゃがの――もやっぱい肺病でこのあいだ亡くなッた、な。みいな母御《かさま》のがうつッたのじゃ。まだこんな話が幾つもあいます。そいでわたしはの、武どん、この病気ばかいは油断がならん、油断をすれば大事じゃと思うッがの」
 母は煙管をさしおきて、少し膝《ひざ》をすすめ、黙して聞きおれる武男の横顔をのぞきつつ
 「実はの、わたしもこの間から相談したいしたい思っ居《お》い申したが――」
 少し言いよどんで、武男の顔しげしげとみつめ、
 「浪じゃがの――」
 「はあ?」
 武男は顔をあげたり。
 「浪を――引き取ってもろちゃどうじゃろの?」
 「引き取る? どう引き取るのですか」
 母は武男の顔より目をはなさず、「実家《さと》によ」
 「実家《さと》に? 実家《さと》で養生さすのですか」
 「養生もしようがの、とにかく引き取って――」
 「養生には逗子《ずし》がいいですよ。実家《さと》では子供もいますし、実家《さと》で養生さすくらいなら此家《うち》の方がよっぽどましですからね」
 冷たくなりし茶をすすりつつ、母は少し震い声に「武どん、卿《おまえ》酔っちゃいまいの、わかんふりするのかい?」じっとわが子の顔みつめ「わたしがいうのはな、浪を――実家《さと》に戻すのじゃ」
 「戻す? ……戻す? ――離縁ですな!![#「!!」は一文字、第3水準1−8−75、111−11]」
 「こーれ、声が高かじゃなッか、武どん」うちふるう武男をじっと見て
 「離縁《じえん》、そうじゃ、まあ離縁《じえん》よ」
 「離縁《りえん》! 離縁!![#「!!」は一文字、第3水準1−8−75、111−14] ――なぜですか」
 「なぜ? さっきからいう通り、病気が病気じゃからの」
 「肺病だから……離縁するとおっしゃるのですな? 浪を離縁すると?」
 「そうよ、かあいそうじゃがの――」
 「離縁!!![#「!!!」は一文字、111−18]」
 武男の手よりすべり落ちたる葉巻は火鉢に落ちておびただしくうち煙《けぶ》りぬ。一燈じじと燃えて、夜の雨はらはらと窓をうつ。

     六の三

 母はしきりに烟《けぶ》る葉巻を灰に葬りつつ、少し乗り出して
 「なあ、武どん、あんまいふいじゃから卿《おまえ》もびっくいするなもっともっごあすがの、わたしはもうこれまで幾夜《いくばん》も幾晩も考えた上の話じゃ、そんつもいで聞いてたもらんといけませんぞ。
 そらアもう浪にはわたしも別にこいという不足はなし、卿《おまえ》も気に入っとっこっじゃから、何もこちの好きで離縁《じえん》のし申《も》すじゃごあはんがの、何を言うても病気が病気――」
 「病気は快方《いいほう》に向いてるです」武男は口早に言いて、きっと母親の顔を仰ぎたり。
 「まあわたしの言うことを聞きなさい。――それは目下《いま》の所じゃわるくないかもしらんがの、わたしはよウく医師《おいしゃ》から聞いたが、この病気ばかいは一|時《とき》よかってもまたわるくなる、暑さ寒さですぐまた起こるもんじゃ、肺結核でようなッた人はまあ一人《ひとり》もない、お医者がそう言い申すじゃての。
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