たらで味方ほしく思うをもよく知りつ。さればいまだ一兵を進めずしてその作戦計画の必ず成効すべきを測りしなり。
 胸中すでに成竹ある千々岩は、さらに山木を語らいて、時々川島家に行きては、その模様を探らせ、かつは自己――千々岩はいたく悔悛《かいしゅん》覚悟《かくご》せる由をほのめかしつ。浪子の病すでに二月《ふたつき》に及びてはかばかしく治《ち》せず、叔母の機嫌《きげん》のいよいよ悪《あ》しきを聞きし四月の末、武男はあらず、執事の田崎も家用を帯びて旅行せしすきをうかがい、一|夜《や》千々岩は不意に絶えて久しき川島家の門を入りぬ。あたかも叔母がひとり武男の書状を前に置きて、深く深く沈吟せるところに行きあわせつ。

     五の二

 「いや、一向|捗《はか》がいきませんじゃ。金は使う、二月も三月もたったてようなるじゃなし、困ったものじゃて、のう安さん。――こういう時分にゃ頼もしか親類でもあって相談すっとこじゃが、武はあの通り子供――」
 「そこでございますて、伯母|様《さん》、実に小甥《わたくし》もこうしてのこのこ上がられるわけじゃないのですが、――御恩になった故叔父様《おじさん》や叔母|様《さん》に対しても、また武男君に対しても、このまま黙って見ていられないのです。実にいわば川島家の一大事ですからね、顔をぬぐってまいったわけで――いや、叔母|様《さん》、この肺病という病《やつ》ばかりは恐ろしいもんですね、叔母|様《さん》もいくらもご存じでしょう、妻《さい》の病気が夫に伝染して一家総だおれになるはよくある例《ためし》です、わたくしも武男君の上が心配でなりませんて、叔母|様《さん》から少し御注意なさらんと大事になりますよ」
 「そうじゃて。わたしもそいが恐ろしかで、逗子に行くな行くなて、武にいうんじゃがの、やっぱい聞かんで、見なさい――」
 手紙をとりて示しつつ「医者がどうの、やれ看護婦がどうしたの、――ばかが、妻《さい》の事ばかい」
 千々岩はにやり笑いつ。「でも叔母|様《さん》、それは無理ですよ、夫婦に仲のよすぎるということはないものです。病気であって見ると、武男君もいよいよこらそうあるべきじゃありませんか」
 「それじゃてて、妻《さい》が病気すッから親に不孝をすッ法はなかもんじゃ」
 千々岩は慨然として嘆息し「いや実に困った事ですな。せっかく武男君もいい細君ができて、叔母|様《さん》もやっと御安心なさると、すぐこんな事になって――しかし川島家の存亡は実に今ですね――ところでお浪さんの実家《さと》からは何か挨拶《あいさつ》がありましたでしょうな」
 「挨拶、ふん、挨拶、あの横柄《おうへい》な継母《かか》が、ふんちっとばかい土産《みやげ》を持っての、言い訳ばかいの挨拶じゃ。加藤の内《うち》から二三度、来は来たがの――」
 千々岩は再び大息《たいそく》しつ。「こんな時にゃ実家《さと》からちと気をきかすものですが、病人の娘を押し付けて、よくいられるですね。しかし利己主義が本尊の世の中ですからね、叔母|様《さん》」
 「そうとも」
 「それはいいですが、心配なのは武男君の健康です。もしもの事があったらそれこそ川島家は破滅です、――そういううちにもいつ伝染しないとも限りませんよ。それだって、夫婦というと、まさか叔母|様《さん》が籬《かき》をお結いなさるわけにも行きませんし――」
 「そうじゃ」
 「でも、このままになすっちゃ川島家の大事になりますし」
 「そうとも」
 「子供の言うようにするばかりが親の職分じゃなし、時々は子を泣かすが慈悲になることもありますし、それに若い者はいったん、思い込んだようでも少したつと案外気の変わるものですからね」
 「そうじゃ」
 「少しぐらいのかあいそうや気の毒は家の大事には換えられませんからね」
 「おおそうじゃ」
 「それに万一、子供でもできなさると、それこそ到底――」
 「いや、そこじゃ」
 膝乗り出して、がっくりと一つうなずける叔母のようすを見るより、千々岩は心の膝をうちて、翻然として話を転じつ。彼はその注《つ》ぎ込みし薬の見る見る回るを認めしのみならず、叔母の心田《しんでん》もとすでに一種子の落ちたるありて、いまだ左右《とこう》の顧慮におおわれいるも、その土《ど》を破りて芽ぐみ長じ花さき実るにいたるはただ時日の問題にして、その時日も勢いはなはだ長からざるべきを悟りしなりき。
 その真質において悪人ならぬ武男が母は、浪子を愛せぬまでもにくめるにはあらざりき。浪子が家風、教育の異なるにかかわらず、なるべくおのれを棄《す》てて姑《しゅうと》に調和せんとするをば、さすがに母も知り、あまつさえそのある点において趣味をわれと同じゅうせるを感じて、口にしかれど心にはわが花嫁のころはとてもあれほどに届かざりしとひそか
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