手《ひだり》の障子には、ひょろひょろとした南天の影|手水鉢《ちょうずばち》をおおうてうつむきざまに映り、右手には槎※[#「※」は「木へん」+「牙」、第4水準2−14−40、81−7]《さが》たる老梅の縦横に枝をさしかわしたるがあざやかに映りて、まだつぼみがちなるその影の、花は数うべくまばらなるにも春の浅きは知られつべし。南縁《なんえん》暄《けん》を迎うるにやあらん、腰板の上に猫《ねこ》の頭《かしら》の映りたるが、今日の暖気に浮かれ出《い》でし羽虫《はむし》目がけて飛び上がりしに、捕《と》りはずしてどうと落ちたるをまた心に関せざるもののごとく、悠々としてわが足をなむるにか、影なる頭《かしら》のしきりにうなずきつ。微笑を含みてこの光景《ありさま》を見し浪子は、日のまぶしきに眉《まゆ》を攅《あつ》め、目を閉じて、うっとりとしていたりしが、やおらあなたに転臥《ねがえり》して、編みかけの韈《くつした》をなで試みつつ、また縦横に編み棒を動かし始めぬ。
 ドシドシと縁に重《おも》やかなる足音して、矮《たけひく》き仁王《におう》の影障子を伝い来つ。
 「気分はどうごあんすな?」
 と枕べにすわるは姑《しゅうと》なり。
 「今日は大層ようございます。起きられるのですけども――」と編み物をさしおき、襟《えり》の乱れを繕いつつ、起き上がらんとするを、姑は押しとめ、
 「そ、そいがいかん、そいがいかん。他人じゃなし、遠慮がいッもンか。そ、そ、そ、また編み物しなはるな。いけませんど。病人な養生《ようじょう》が仕事、なあ浪どん。和女《おまえ》は武男が事ちゅうと、何もかも忘れッちまいなはる。いけません。早う養生してな――」
 「本当に済みません、やすんでばかし……」
 「そ、そいが他人行儀、なあ。わたしはそいが大きらいじゃ」
 うそをつきたもうな、卿《おんみ》は常に当今の嫁なるものの舅姑《しゅうと》に礼足らずとつぶやき、ひそかにわが※[#「※」は「おんなへん+息」、第4水準2−5−70、82−7]《よめ》のこれに異なるをもっけの幸《さち》と思うならずや。浪子は実家《さと》にありけるころより、口にいわねどひそかにその継母のよろず洋風にさばさばとせるをあきたらず思いて、一家の作法の上にはおのずから一種古風の嗜味《しみ》を有せるなりき。
 姑はふと思い出《い》でたるように、
 「お、武男から手紙が来たようじゃったが、どう書《け》えて来申《きも》した?」
 浪子は枕べに置きし一通の手紙のなかぬき出《いだ》して姑に渡しつつ、
 「この日曜にはきっといらッしゃいますそうでございますよ」
 「そうかな」ずうと目を通してくるくるとまき収め、「転地養生もねもんじゃ。この寒にエットからだ動《いご》かして見なさい、それこそ無《な》か病気も出て来ます。風邪《かぜ》はじいと寝ておると、なおるもんじゃ。武は年が若かでな。医師《いしゃ》をかえるの、やれ転地をすッのと騒ぎ申《も》す。わたしたちが若か時分な、腹が痛かてて寝る事《こた》なし、産あがりだて十日と寝た事アあいません。世間が開けて来《く》っと皆が弱《よお》うなり申すでな。はははは。武にそう書《け》えてやったもんな、母《おっか》さんがおるで心配しなはんな、ての、ははははは、どれ」
 口には笑えど、目はいささか懌《よろこ》ばざる色を帯びて、出《い》で行く姑の後ろ影、
 「御免遊ばせ」
 と起き直りつつ見送りて、浪子はかすかに吐息を漏らしぬ。
 親が子をねたむということ、あるべしとは思われねど、浪子は良人《おっと》の帰りし以来、一種異なる関係の姑との間にわき出《い》でたるを覚えつ。遠洋航海より帰り来て、浪子のやせしを見たる武男が、粗豪なる男心にも留守の心づかいをくみて、いよいよいたわるをば、いささか苦々《にがにが》しく姑の思える様子は、怜悧《さと》き浪子の目をのがれず。時にはかの孝――姑のいわゆる――とこの愛の道と、一時に踏み難く岐《わか》るることあるを、浪子はひそかに思い悩めるなり。
 「奥様、加藤様のお嬢様がおいで遊ばしましてございます」
 と呼ぶ婢《おんな》の声に、浪子はぱっちり目を開きつ。入り来る客《ひと》を見るより喜色はたちまち眉間《びかん》に上りぬ。
 「あ、お千鶴《ちず》さん、よく来たのね」

     三の二

 「今日はどんな?」
 藤色《ふじいろ》縮緬《ちりめん》のおこそ頭巾《ずきん》とともに信玄袋をわきへ押しやり、浪子の枕べ近く立ち寄るは島田の十七八、紺地|斜綾《はすあや》の吾妻《あずま》コートにすらりとした姿を包んで、三日月眉《みかづきまゆ》におやかに、凛々《りり》しき黒目がちの、見るからさえざえとした娘。浪子が伯母加藤子爵夫人の長女、千鶴子というはこの娘《こ》なり。浪子と千鶴子は一歳《ひとつ》違いの従姉妹《いと
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