借る必要がどこにあるのか」
 「まあ、聞いてくれたまえ。実は切迫《せっぱ》つまった事で、金は要《い》る、借りるところはなし。君がいると、一も二もなく相談するのだが、叔母|様《さん》には言いにくいだろうじゃないか。それだといって、急場の事だし、済まぬ――済まぬと思いながら――、実は先月はちっと当てもあったので、皆済してから潔く告白しようと――」
 「ばかを言いたまえ。潔く告白しようと思った者が、なぜ黙って別に三千円を借りようとするのだ」
 膝《ひざ》を乗り出す武男が見幕の鋭きに、山木はあわてて、
 「これさ、若旦那、まあ、お静かに、――何か詳しい事情《わけ》はわかりませんが、高が二千や三千の金、それに御親戚であって見ると、これは御勘弁――ねエ若旦那。千々岩|君《さん》も悪い、悪いがそこをねエ若旦那。こんな事が表《おもて》ざたになって見ると、千々岩|君《さん》の立身もこれぎりになりますから。ねエ若旦那」
 「それだから三千円は払った、また訴訟なぞしないといっているじゃないか。――山木、君の事じゃない、控えて居たまえ、――それはしない、しかしもう今日限り絶交だ」
 もはや事ここにいたりては恐るる所なしと度胸を据えし千々岩は、再び態度を嘲罵《ちょうば》にかえつ。
 「絶交?――別に悲しくもないが――」
 武男の目は焔《ほのお》のごとくひらめきつ。
 「絶交はされてもかまわんが、金は出してもらうというのか。腰抜け漢《め》!」
 「何?」
 気色立《けしきだ》つ双方の勢いに酔《え》いもいくらかさめし山木はたまり兼ねて二人《ふたり》が間に分け入り「若旦那も、千々岩|君《さん》も、ま、ま、ま、静かに、静かに、それじゃ話も何もわからん、――これさ、お待ちなさい、ま、ま、ま、お待ちなさい」としきりにあなたを縫いこなたを繕う。
 押しとめられて、しばし黙然《もくねん》としたる武男は、じっと千々岩が面《おもて》を見つめ、
 「千々岩、もういうまい。わが輩も子供の時から君と兄弟《きょうだい》のように育って、実際才力の上からも年齢《とし》からも君を兄と思っていた。今後も互いに力になろう、わが輩も及ぶだけ君のために尽くそうと思っていた。実はこのごろまでもまさかと信じ切っていた。しかし全く君のために売られたのだ、わが輩を売るのは一個人の事だが、君はまだその上に――いやいうまい、三千円の費途は聞くまい。しかし今までのよしみに一|言《ごん》いって置くが、人の耳目は早いものだ、君は目をつけられているぞ、軍人の体面に関するような事をしたもうな。君たちは金より貴《たっと》いものはないのだから、言ったってしかたはあるまいが、ちっとあ恥を知りたまえ。じゃもう会うまい。三千円はあらためて君にくれる」
 厳然として言い放ちつつ武男は膝の前なる証書をとってずたずたに引き裂き棄《す》てつ。つと立ち上がって次の間に出《い》でし勢いに、さっきよりここに隠れて聞きおりしと覚しき女《むすめ》お豊を煽《あお》り倒しつ。「あれえ」という声をあとに足音荒く玄関の方《かた》に出《い》で去りたり。
 あっけにとられし山木と千々岩と顔見あわしつ。「相変わらず坊っちゃまだね。しかし千々岩さん、絶交料三千円は随分いいもうけをしたぜ」
 落ち散りたる証書の片々を見つめ、千々岩は黙然《もくねん》として唇《くちびる》をかみぬ。

     三の一

 二月《きさらぎ》初旬《はじめ》ふと引きこみし風邪《かぜ》の、ひとたびは※[#「※」はやまいだれ+差、第4水準2−81−66、80−11]《おこた》りしを、ある夜|姑《しゅうとめ》の胴着を仕上ぐるとて急ぐままに夜《よ》ふかししより再びひき返して、今日二月の十五日というに浪子はいまだ床あぐるまで快きを覚えざるなり。
 今年の寒さは、今年の寒さは、と年々に言いなれし寒さも今年こそはまさしくこれまで覚えなきまで、日々吹き募る北風は雪を誘い雨を帯びざる日にもさながら髄を刺し骨をえぐりて、健やかなるも病み、病みたるは死し、新聞の広告は黒囲《くろぶち》のみぞ多くなり行く。この寒さはさらぬだに強からぬ浪子のかりそめの病を募らして、取り立ててはこれという異なれる病態もなけれど、ただ頭《かしら》重く食《しょく》うまからずして日また日を渡れるなり。
 今二点を拍ちし時計の蜩《ひぐらし》など鳴きたらんように凛々《りんりん》と響きしあとは、しばし物音絶えて、秒を刻み行く時計のかえって静けさを加うるのみ。珍しくうららかに浅碧《あさみどり》をのべし初春の空は、四枚の障子に立て隔てられたれど、悠々《ゆうゆう》たる日の光くまなく紙障に栄《は》えて、余りの光は紙を透かして浪子が仰ぎ臥《ふ》しつつ黒スコッチの韈《くつした》を編める手先と、雪より白き枕《まくら》に漂う寝乱れ髪の上にちらちらおどりぬ。左
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