さぎ》と亀《かめ》のお話を聞いてよ、言って見ましょうか、――ある所に一ぴきの兎と亀がおりました――あらおかあさまいらッしてよ」
柱時計の午後|二点《にじ》をうつ拍子に、入り来たりしは三十八九の丈《たけ》高き婦人なり。束髪の前髪をきりて、ちぢらしたるを、隆《たか》き額の上にて二つに分けたり。やや大きなる目少しく釣りて、どこやらちと険なる所あり。地色の黒きにうっすり刷《は》きて、唇《くちびる》をまれに漏るる歯はまばゆきまで皓《しろ》くみがきぬ。パッとしたお召の単衣《ひとえ》に黒繻子《くろじゅす》の丸帯、左右の指に宝石《たま》入りの金環|価《あたえ》高かるべきをさしたり。
「またおとうさまに甘えているね」
「なにさ、今学校の成績を聞いてた所じゃ。――さあ、これからおとうさんのおけいこじゃ。みんな外で遊べ遊べ。あとで運動に行くぞ」
「まあ、うれしい」
「万歳!」
両児《ふたり》は嬉々《きき》として、互いにもつれつ、からみつ、前になりあとになりて、室を出《い》で去りしが、やがて「万歳!」「兄《にい》さまあたしもよ」と叫ぶ声はるかに聞こえたり。
「どんなに申しても、良人《あなた》はやっぱり甘くなさいますよ」
中将はほほえみつ。「何、そうでもないが、子供はかあいがッた方がいいさ」
「でもあなた、厳父慈母と俗にも申しますに、あなたがかあいがッてばかりおやンなさいますから、ほんとに逆さまになッてしまッて、わたくしは始終しかり通しで、悪《にく》まれ役はわたくし一人《ひとり》ですわ」
「まあそう短兵急《たんぺいきゅう》に攻めンでもええじゃないか。どうかお手柔らかに――先生はまずそこにおかけください。はははは」
打ち笑いつつ中将は立ってテーブルの上よりふるきローヤルの第三|読本《リードル》を取りて、片唾《かたず》をのみつつ、薩音《さつおん》まじりの怪しき英語を読み始めぬ。静聴する婦人――夫人はしきりに発音の誤りを正しおる。
こは中将の日課なり。維新の騒ぎに一介の武夫として身を起こしたる子爵は、身生の※[#「※」は「つつみがまえ」+「夕」、第3水準1−14−76、41−18]忙《そうぼう》に逐《お》われて外国語を修むるのひまもなかりしが、昨年来予備となりて少し閑暇を得てければ、このおりにとまず英語に攻めかかれるなり。教師には手近の夫人|繁子《しげこ》。長州の名ある士人
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