《きょうきょう》たる三軍の心をも安からしむべし。
肱近《ひじちか》のテーブルには青地交趾《せいじこうち》の鉢《はち》に植えたる武者立《むしゃだち》の細竹《さいちく》を置けり。頭上には高く両陛下の御影《ぎょえい》を掲げつ。下りてかなたの一面には「成仁《じんをなす》」の額あり。落款は南洲《なんしゅう》なり。架上に書あり。暖炉縁《マンテルピース》の上、すみなる三角|棚《だな》の上には、内外人の写真七八枚、軍服あり、平装のもあり。
草色のカーテンを絞りて、東南二方の窓は六つとも朗らかに明け放ちたり。東の方《かた》は眼下に人うごめき家かさなれる谷町を見越して、青々としたる霊南台の上より、愛宕塔《あたごとう》の尖《さき》、尺ばかりあらわれたるを望む。鳶《とび》ありてその上をめぐりつ。南は栗《くり》の花咲きこぼれたる庭なり。その絶え間より氷川社《ひかわやしろ》の銀杏《いちょう》の梢《こずえ》青鉾《あおほこ》をたてしように見ゆ。
窓より見晴らす初夏の空あおあおと浅黄繻子《あさぎじゅす》なんどのように光りつ。見る目|清々《すがすが》しき緑葉《あおば》のそこここに、卵白色《たまごいろ》の栗の花ふさふさと満樹《いっぱい》に咲きて、画《えが》けるごとく空の碧《みどり》に映りたり。窓近くさし出《い》でたる一枝は、枝の武骨なるに似ず、日光《ひ》のさすままに緑玉、碧玉《へきぎょく》、琥珀《こはく》さまざまの色に透きつ幽《かす》めるその葉の間々《あいあい》に、肩総《エポレット》そのままの花ゆらゆらと枝もたわわに咲けるが、吹くとはなくて大気のふるうごとに香《か》は忍びやかに書斎に音ずれ、薄紫の影は窓の閾《しきみ》より主人が左手《ゆんで》に持てる「西比利亜《サイベリア》鉄道の現況」のページの上にちらちらおどりぬ。
主人はしばしその細き目を閉じて、太息《といき》つきしが、またおもむろに開きたる目を冊子の上に注ぎつ。
いずくにか、車井《くるまい》の響《おと》からからと珠《たま》をまろばすように聞こえしが、またやみぬ。
午後の静寂《しずけさ》は一邸に満ちたり。
たちまち虚《すき》をねらう二人《ふたり》の曲者《くせもの》あり。尺ばかり透きし扉《とびら》よりそっと頭《かしら》をさし入れて、また引き込めつ。忍び笑いの声は戸の外に渦まきぬ。一人《ひとり》の曲者は八つばかりの男児《おのこ》なり。膝《ひざ
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