れが――あの千々岩《ちぢわ》が!」
 「エ、千々岩! あの千々岩が! どうして? 戦死《うちじに》かい?」
 「戦死《せんし》将校のなかに名が出ているわ。――いい気味!」
 「またそんなはしたないことを。――そうかい。あの千々岩が戦死《うちじに》したのかい! でもよく戦死《うちじに》したねエ、千鶴さん」
 「いい気味! あんな人は生きていたッて、邪魔になるばかりだわ」
 加藤子爵夫人はしばし黙然として沈吟しぬ。
 「死んでもだれ一人泣いてくれる者もないくらいでは、生きがいのないものだね、千鶴さん」
 「でも川島のおばあさんが泣きましょうよ。――川島てば、お母さま、お豊《とよ》さんがとうと逃げ出したんですッて」
 「そうかい?」
 「昨日《きのう》ね、また何か始めてね、もうもうこんな家《うち》にはいないッて、泣き泣き帰っちまいましたんですッて。ほほほほほほようすが見たかったわ」
 「だれが行ってもあの家《うち》では納まるまいよ、ねエ千鶴さん」
 母子《おやこ》相見て言葉途絶えぬ。
       *
 千々岩は死せるなり。千鶴子|母子《おやこ》が右の問答をなしつるより二十日《はつか》ばかり立ちて、一片の遺骨と一通の書と寂しき川島家に届きたり。骨《こつ》は千々岩の骨、書は武男の書なりき。その数節を摘みてん。
  (([#この二重括弧は一文字、以下同様に使用、第3水準1−2−54、197−16]前文略))[#この二重括弧は一文字、以下同様に使用、第3水準1−2−55、197−16]
[#以下1字下げ]
 旅順陥落の翌々日、船渠《せんきょ》船舶等艦隊の手に引き取ることと相成り、将校以下数名上陸いたし、私儀も上陸|仕《つかまつ》り候《そろ》。激戦後の事とて、惨状は筆紙に尽くし難く((中略))仮設野戦病院の前を過ぎ候ところ、ふと担架にて人を運び居候を見受け申し候。青|毛布《ケット》をおおい、顔には白木綿《しろもめん》のきれをかけて有之《これあり》、そのきれの下より見え候口もと顋《あご》のあたりいかにも見覚えあるようにて、尋ね申し候えば、これは千々岩中尉と申し候。その時の喫驚《きっきょう》御察しくださるべく候。((中略))おおいをとり申し候えば、色|蒼《あお》ざめ、きびしく歯をくいしばり居申し候。創《きず》は下腹部に一か所、その他二か所、いずれも椅子山《いすざん》砲台攻撃の際受け候
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