。
やがて戦闘旗ゆらゆらと大檣《たいしょう》の頂《いただき》高く引き揚げられ、数声のラッパは、艦橋より艦内くまなく鳴り渡りぬ。配置につかんと、艦内に行きかう人の影織るがごとく、檣楼に上る者、機関室に下る者、水雷室に行く者、治療室に入る者、右舷《うげん》に行き、左舷に行き、艦尾に行き、艦橋に上り、縦横に動ける局部の作用たちまち成るを告げて、戦闘の準備は時を移さず整いぬ。あたかも午時《ごじ》に近くして、戦わんとしてまず午餐《ごさん》の令は出《い》でたり。
分隊長を助け、部下の砲員を指揮して手早く右舷速射砲の装填《そうてん》を終わりたる武男は、ややおくれて、士官次室《ガンルーム》に入れば、同僚皆すでに集まりて、箸《はし》下り皿《さら》鳴りぬ。短小少尉はまじめになり、甲板士官《メート》はしきりに額の汗をぬぐいつつうつむきて食らい、年少《としした》の候補生はおりおり他の顔をのぞきつつ、劣らじと皿をかえぬ。たちまち箸をからりと投げて立ちたるは赤シャツ少尉なり。
「諸君、敵を前に控えて悠々《ゆうゆう》と午餐《ひるめし》をくう諸君の勇気は――立花宗茂《たちばなむねしげ》に劣らずというべしだ。お互いにみんなそろって今日《きょう》の夕飯を食うや否やは疑問だ。諸君、別れに握手でもしようじゃないか」
いうより早く隣席にありし武男が手をば無手《むず》と握りて二三度打ちふりぬ。同時に一座は総立ちになりて手を握りつ、握られつ、皿は二個三個からからとテーブルの下に転《まろ》び落ちたり。左頬《さきょう》にあざある一少尉は少軍医の手をとり、
「わが輩が負傷したら、どうかお手柔らかにやってくれたまえ。その賄賂《わいろ》だよ、これは」
と四五度も打ちふりぬ。からからと笑える一座は、またたちまちまじめになりつ。一人去り、二人去りて、果てはむなしき器皿《きべい》の狼藉《ろうぜき》たるを留《とど》むるのみ。
零時二十分、武男は、分隊長の命を帯び、副艦長に打ち合わすべき事ありて、前艦橋に上れば、わが艦隊はすでに単縦陣を形づくり、約四千メートルを隔てて第一遊撃隊の四艦はまっ先に進み、本隊の六艦はわが松島を先登としてこれにつづき、赤城西京丸は本隊の左舷に沿うてしたがう。
仰ぎ見る大檣《たいしょう》の上高く戦闘旗は碧空《へきくう》に羽《は》たたき、煙突の煙《けぶり》まっ黒にまき上り、舳《へさき》は海を劈
前へ
次へ
全157ページ中102ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング