国のため、遠く離れて出《い》でて行く」の離歌に腸《はらわた》を断ち、宣戦の大詔に腕を扼《とりしば》り、威海衛の砲撃に初めて火の洗礼を授けられ、心をおどろかし目を驚かすべき事は続々起こり来たりて、ほとんど彼をして考うるの暇《いとま》なからしめたり。多謝す、これがために武男はその心をのみ尽くさんとするあるものをば思わずして、わずかにわれを持したるなりき。この国家の大事に際しては、渺《びょう》たる滄海《そうかい》の一|粟《ぞく》、自家《われ》川島武男が一身の死活浮沈、なんぞ問うに足らんや。彼はかく自ら叱《しっ》し、かの痛をおおうてこの職分の道に従い、絶望の勇をあげて征戦の事に従えるなり。死を彼は真に塵《ちり》よりも軽く思えり。
されど事もなき艦橋の上の夜《よ》、韓海の夏暑くしてハンモックの夢結び難き夜《よ》は、ともすれば痛恨|潮《うしお》のごとくみなぎり来たりて、丈夫《ますらお》の胸裂けんとせしこと幾たびぞ。時はうつりぬ。今はかの当時、何を恥じ、何を憤《いか》り、何を悲しみ、何を恨むともわかち難き感情の、腸《はらわた》に沸《たぎ》りし時は過ぎて、一片の痛恨深く痼《こ》して、人知らずわが心を蝕《くら》うのみ。母はかの後二たび書を寄せ物を寄せてつつがなく帰り来たるの日を待つと言い送りぬ。武男もさすがに老いたる母の膝下《しっか》さびしかるべきを思いては、かの時の過言を謝して、その健康を祈る由書き送りぬ。されど解きても融《と》け難き一塊の恨みは深く深く胸底に残りて、彼が夜々ハンモックの上に、北洋艦隊の殲滅《せんめつ》とわが討死《うちじに》の夢に伴なうものは、雪白《せっぱく》の肩掛《ショール》をまとえる病めるある人の面影《おもかげ》なりき。
消息絶えて、月は三たび移りぬ。彼女なお生きてありや、なしや。生きてあらん。わが忘るる日なきがごとく、彼も思わざるの日はなからん。共に生き共に死なんと誓いしならずや。
武男はかく思いぬ。さらに最後に相見し時を思いぬ。五日の月松にかかりて、朧々《ろうろう》としたる逗子の夕べ、われを送りて門《かど》に立ち出《い》で、「早く帰ってちょうだい」と呼びし人はいずこぞ。思い入りてながむれば、白き肩掛《ショール》をまとえる姿の、今しも月光のうちより歩み出《い》で来たらん心地《ここち》すなり。
明日《あす》にもあれ、首尾よく敵の艦隊に会して、この身砲弾の
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