かかれる山木は、幾多の権門をくぐりなれたる身の、常にはあるまじく胆《たん》落つるを覚えつ。昨夜川島家に呼ばれて、その使命を託されし時も、頭《かしら》をかきつるが、今現にこの場に臨みては彼は実に大なりと誇れる胆《きも》のなお小にして、その面皮のいまだ十分に厚からざるを憾《うら》みしなり。
 名刺一たび入り、書生二たび出《い》でて、山木は応接間に導かれつ。テーブルの上には清韓《しんかん》の地図一葉広げられたるが、まだ清めもやらぬ火皿《ひざら》のマッチ巻莨《シガー》のからとともに、先座の話をほぼ想《おも》わしむ。げにも東学党の乱、清国出兵の報、わが出兵のうわさ、相ついで海内《かいだい》の注意一に朝鮮問題に集まれる今日《きょう》このごろは、主人中将も予備にこそおれおのずから事多くして、またかの英文読本を手にするの暇《いとま》あるべくも思われず。
 山木が椅子《いす》に倚《よ》りて、ぎょろぎょろあたりをながめおる時、遠雷の鳴るがごとき足音次第に近づきて、やがて小山のごとき人はゆるやかに入りて主位につきぬ。山木は中将と見るよりあわてて起《た》てる拍子に、わがかけて居し椅子をば後ろざまにどうと蹴《け》倒しつ。「あっ、これは疎※[#「※」は「つつみがまえ」+「夕」、第3水準1−14−76、128−6]《そそう》を」と叫びつつ、あわてて引き起こし、しかる後二つ三つ四つ続けざまに主人に向かいて叮重《ていちょう》に辞儀をなしぬ。今の疎忽《そこつ》のわびも交れるなるべし。
 「さあ、どうかおかけください。あなたが山木|君《さん》――お名は承知しちょったですが」
 「はッ。これは初めまして……手前は山木|兵造《ひょうぞう》と申す不調法者で(句ごとに辞儀しつ、辞儀するごとに椅子はききときしりぬ、仰せのごとくと笑えるように)……どうか今後ともごひいきを……」
 避け得られぬ閑話の両三句、朝鮮のうわさの三両句――しかる後中将は言《ことば》をあらためて、山木に来意を問いつ。
 山木は口を開かんとしてまず片唾《かたず》をのみ、片唾をのみてまた片唾をのみ、三たび口を開かんとしてまた片唾をのみぬ。彼はつねに誇るその流滑自在なる舌の今日に限りてひたと渋るを怪しめるなり。

     八の二

 山木はわずかに口を開き、
 「実は今日《こんにち》は川島家の御名代《ごみょうだい》でまかりいでましたので」
 思い
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