を聞きつつ、この上の欲には浪子が早く全快してここにわが帰りを待っているようにならばなど今日立ち寄りて来し逗子の様子思い浮かべながら、陶然とよき心地《ここち》になりて浴を出《い》で、使女《おんな》が被《はお》る平生服《ふだんぎ》を無造作に引きかけて、葉巻握りし右手《めて》の甲に額をこすりながら、母が八畳の居間に入り来たりぬ。
 小間使いに肩|揉《ひね》らして、羅宇《らう》の長き煙管《きせる》にて国分《こくぶ》をくゆらしいたる母は目をあげ「おお早上がって来たな。ほほほほほ、おとっさまがちょうどそうじゃったが――そ、その座ぶとんにすわッがいい。――松、和女郎《おまえ》はもうよかで、茶を入れて来なさい」と自ら立って茶棚《ちゃだな》より菓子鉢を取り出《い》でつ。
 「まるでお客様ですな」
 武男は葉巻を一吸い吸いて碧《あお》き煙《けぶり》を吹きつつ、うちほほえむ。
 「武どん、よう帰ったもった。――実はその、ちっと相談もあるし、是非《ぜっひ》帰ってもらおうと思ってた所じゃった。まあ帰ってくれたで、いい都合ッごあした。逗子――寄って来《き》つろの?」
 逗子はしげく往来するを母のきらうはよく知れど、まさかに見え透いたるうそも言いかねて、
 「はあ、ちょっと寄って来ました。――大分《だいぶ》血色も直りかけたようです。母《おっか》さんに済まないッて、ひどく心配していましたッけ」
 「そうかい」
 母はしげしげ武男の顔をみつめつ。
 おりから小間使いの茶道具を持《も》て来しを母は引き取り、
 「松、御身《おまえ》はあっち行っていなさい。そ、その襖《ふすま》をちゃんとしめて――」

     六の二

 手ずから茶をくみて武男にすすめ、われも飲みて、やおら煙管《きせる》をとりあげつ。母はおもむろに口を開きぬ。
 「なあ武どん、わたしももう大分《だいぶ》弱いましたよ。去年のリュウマチでがっつり弱い申した。昨日《きのう》お墓まいりしたばかいで、まだ肩腰が痛んでな。年が寄ると何かと心細うなッて困いますよ――武どん、卿《おまえ》からだを大事にしての、病気をせん様《ごと》してくれんとないませんぞ」
 葉巻の灰をほとほと火鉢の縁にはたきつつ、武男はでっぷりと肥えたれどさすがに争われぬ年波の寄る母の額を仰ぎ「私《わたくし》は始終|外《ほか》にいますし、何もかも母《おっか》さんが総理大臣ですからな――
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