馬上三日の記
エルサレムよりナザレへ
徳冨蘆花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)大工場《だいくば》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)八年以前|独逸《どいつ》皇帝が

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#濁点付き片仮名ヰ、1−7−83]クトリア

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いよ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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    車上

 六月四日、エルサレムを立ち、サマリヤを経てガリラヤに赴かんとす。十字架よりナザレの大工場《だいくば》へ、即ち四福音《しふくいん》を逆に読むなり。
 エル・ビレエにてエルサレムに最後の告別をなし、馬車はいよ/\北へ走る。車中には案内者一名載せたり。名はフィリップ・ジヤルルック三十八九、シリヤ人にしてクリスチアンなり。此馬車道は、八年以前|独逸《どいつ》皇帝が土耳其《とるこ》領内遊歴の折修繕したるものとか。独帝の漫遊以来パレスタインに於ける独逸人の活動著しく、到る処のホテルの如きも独逸人の経営に係《かゝ》るもの多し。
 アブラハムが天幕を張りしベテルの跡なるべしと云ふ所をはじめとして、道の左右は遠き山の側《きは》、近き谷の隈《くま》、到る処に旧約の古蹟と十字軍時代の建物の名残あり。岩の山、畑なくして唯処々《しよ/\》に橄欖林《かんらんりん》或は稀に葡萄畑を見る。馬車とまりし或小屋にては、白き桑実《くはのみ》を売れり。白、紫両種あり、皆果実の為に植うるなり。ダマスコ附近には養蚕用の桑畑ありと云ふ。やがて強盗谷、強盗泉あり。岩壁の下、草地《くさぢ》数弓《すきう》、荷を卸して駱駝臥し、人憩ふ。我儕《われら》の馬も水のみて行く。やがてまた十数頭の駱駝|鈴《りん》を鳴らし驢馬の人これを駆り来るを見る。荷は皆|杏《あんず》。
 昔のサマリヤ境に近きシンジルの村はづれにて、路傍橄欖樹下に三頭の馬を繋いで昼寝する男あり。ジヤルルック君車上より声かけしが、寤《さ》めず。車を下りて呼びさまし来る。此は夜をこめてエルサレムより余等の乗る可き馬を牽《ひ》き来り此処《こゝ》に待てる馬士《まご》イブラヒム君とて矢張シリヤ人なり。やがて道は急坂《きふはん》の上に尽く。此あたりやゝ快濶たる山坡《さんば》の上、遠くヘルモン山の片影《へんえい》を見得べしと云ふ。今日は空少し夏霞《なつがすみ》して見えず、余等はこゝにて馬車を下る。エルサレムより約八里。

    馬上

 急坂を下りて、旅亭の址《あと》あり、側に泉湧く。ガリラヤよりエルサレムに行くユダヤ人の男女、および駱駝ひき、羊かひなど大勢憩ふ。余等も無花果《いちじゆく》の蔭を求めて、昼食《ちうじき》す。
 やゝありて馬に上る。余は白馬、栗毛はジヤルルック君、イブラヒム君は余が荷物を駄せし黒に跨る。おとなしき馬をと特に頼み置きたる甲斐には、余の馬は極めて柔順なれど、極めて足遅く、しばしば道草を食ふ。イブラヒム君うしろより余の馬の尻をたゝく。駭《おどろ》きて突然駈け出し、余は殆んど落ちむとして馬の首を抱くものいくたび。パレスタイン六月の日は容赦なく頭上より照りつけ、古鞍《ふるぐら》に尻いたく、岩山の上り下り頗る困憊を極む。旅杖《たびづゑ》一つ、鞋《サンダル》に岩角を踏み小石を踏みて汗になりつゝ、徒歩し玉ひし師の昔を思ふ。タオルもてヘルメツト帽の上より頬かむりし、旅袋《たびぶくろ》より毛布取出して鞍上に敷きて、また行く。岩間に錦糸撫子《きんしなでしこ》などの咲けるを見る。
 岩山幾つか越えて、また馬車も通ひ得べき谷の道に出づ。山、東西に低き屏風を開き、南北に細長き谷間は麦熟して黄河の流るゝが如し。已にサマリヤの境《さかひ》に入れるなり。

    ヤコブの井

 狭き谷の麦圃に沿ひ、北行《ほくかう》良《やゝ》久しく、西日まばしく馬影《ばえい》斜《なゝめ》に落つる頃、路の左に聳《そび》え起る一千尺ばかりの山を見る。中腹|石屏《せきびやう》を立てたる如き山骨《さんこつ》露《あら》はれ、赭禿《あかはげ》の山頂に小き建物あり。此れこそゲリジム山、昔サマリヤ人のエルサレムに対抗して神を拝せし跡、今山頂の建物は回教徒遥拝所なり、と案内者は説明す。
 こゝに谷は三叉《みつまた》をなし、街道はゲリジム山麓を西に折れてナブルスの邑《まち》に到る。余等はヤコブの井を見る可く、大道より右にきれ込む。しばし行けば、田隴《でんろう》の間塀をめぐらし杏の木茂れる一区斜面の地あり。此処は昔の寺の跡、今は希臘《ぐりーき》派の小庵、ヤコブの井は境内にあり。馬を下りて入る。
 年老いたる番僧の露西亜人《ろしあびと
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