水汲み
徳冨盧花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)井《いど》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「くちへん+云」、第3水準1−14−87、47−2]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぼろ/\に
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 玉川に遠いのが第一の失望であつた。井《いど》の水が悪いのが差当《さしあた》つての苦痛であつた。
 井《いど》は勝手口から唯《たゞ》六歩《むあし》、ぼろ/\に腐つた麦藁屋根《むぎわらやね》が通路《かよひぢ》と井《いど》を覆《お》ふて居《を》る。上《うへ》窄《すぼま》りになつた桶の井筒《ゐづゝ》、鉄の車は少し欠けてよく綱がはずれ、釣瓶《つるべ》は一方しか無いので、釣瓶縄の一端を屋根の柱に結《ゆ》はへてある。汲み上げた水が恐ろしく泥臭いのも尤《もつとも》、錨《いかり》を下ろして見たら、渇水の折からでもあらうが、水深が一尺とはなかつた。
 移転の翌日、信者仲間の人達が来て井浚《いどさら》へをやつてくれた。鍋蓋《なべぶた》、古手拭、茶碗のかけ、色々の物が揚《あ》がつて来て、底は清潔になり、水量も多少は増したが、依然たる赤土水《あかつちみづ》の濁り水で、如何に無頓着の彼でもがぶ/\飲む気になれなかつた。近隣《となり》の水を当座は貰つて使つたが、何れも似寄つた赤土水である。墓向ふの家の水を貰ひに往つた女中が、井を覗《のぞ》いたら芥《ごみ》だらけ虫だらけでございます、と顔を蹙《しか》めて帰つて来た。其向ふ隣の家に往つたら、其処の息子が、此家《うち》の水はそれは好い水で、演習行軍に来る兵隊なぞもほめて飲む、と得意になつて吹聴《ふいちやう》したが、其れは赤子の時から飲み馴れたせいで、大した水でもなかつた。
 使ひ水は兎に角、飲料水だけは他に求めねばならぬ。
 家から五丁程西に当つて、品川堀と云ふ小さな流水《ながれ》がある。玉川上水の分流《わかれ》で、品川方面の灌漑《くわんがい》専用《せんよう》の水だが、附近《あたり》の村人は朝々《あさ/\》顔《かほ》も洗へば、襁褓《おしめ》の洗濯もする、肥桶も洗ふ。何アに玉川の水だ、朝早くさへ汲めば汚ない事があるものかと、男役《をとこやく》に彼は水汲む役を引受けた。起きぬけに
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