るひは白く立枯るゝ峯を過ぎて、障るものなき邊《あたり》へ來ると、軸物の大俯瞰圖のする/\と解けて落ちる樣に、眼は今汽車の下りつゝある霜枯の萱山《かややま》から、青々とした裾野につゞく十勝の大平野を何處までもずうと走つて、地と空と融け合ふ邊《あたり》にとまつた。其處に北太平洋が潛むで居るのである。多くの頭が窓から出て眺める。汽車は尾花の白く光る山腹を、波状を描いて蛇の樣にのたくる。北東の方には、石狩、十勝、釧路、北見の境上に蟠《わだかま》る連嶺が青く見えて來た。南の方には、日高境の青い高山が見える。汽車は此等の山を右の窓から左の窓へと幾囘か轉換して、到頭平野に下りて了うた。
當分は※[#「木+解」、第3水準1−86−22]《かしは》の林が迎へて送る。追々大豆畑が現はれる。十勝は豆の國である。旭川平原や札幌深川間の汽車の窓から見る樣な水田は、まだ十勝に少ない。帶廣《おびひろ》は十勝の頭腦、河西《かさい》支廳の處在地、大きな野の中の町である。利別《としべつ》から藝者|雛妓《おしやく》が八人乘つた。今日|網走《あばしり》線の鐵道が※[#「冫+陸のつくり」、10−下−20]別《りくんべつ》まで開通した其開通式に赴くのである。池田驛は網走線の分岐點、球燈、國旗、滿頭飾をした機關車なども見えて、眞黒な人だかりだ。汽車はこゝで乘客の大部分を下ろし、汪々《わう/\》たる十勝川の流れに暫くは添うて東へ走つた。時間が晩《おく》れて、浦幌《うらほろ》で太平洋の波の音を聞いた時は、最早車室の電燈がついた。此處から線路は直角をなして北上し、一路斷續海の音を聞きつゝ、九時近くくたびれ切つて釧路に着いた。車に搖られて、十九日の缺月を横目に見ながら、夕汐白く漫々たる釧路川に架した長い長い幣舞《ぬさまひ》橋を渡り、輪島屋と云ふ宿に往つた。
(二)
あくる日飯を食ふと見物に出た。釧路町は釧路川口の兩岸に跨《またが》つて居る。停車場所在の側は平民町で、官廳、銀行、重なる商店、旅館等は、大抵橋を渡つた東岸にある。東岸一帶は小高い丘をなして自《おのづ》から海風をよけ、幾多の人家は水の畔《はた》から上段かけて其蔭に群がり、幾多の舟船は其蔭に息《いこ》うて居る。余等は辨天社から燈臺の方に上つた。釧路川と太平洋に挾まれた半島の岬端で、東面すれば太平洋、西面すれば釧路灣、釧路川、釧路町を眼下に見て、當面には海と平行して長く延いた丘の上、水色に冴えた秋の朝空に間《あはひ》隔てゝ二つ列むだ雄阿寒《をあかん》、雌阿寒《めあかん》の秀色を眺める。灣には煙立つ汽船、漁舟が浮いて居る。幣舞《ぬさまひ》橋には蟻の樣に人が渡つて居る。北海道東部第一の港だけあつて、氣象頗雄大である。今日人を尋ぬ可く午前中に釧路を去らねばならぬので、見物は※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そこ/\》にして宿に歸る。
茶路
北太平洋の波の音の淋しい釧路《くしろ》の白糠《しらぬか》驛で下りて、宿の亭主を頼み村役場に往つて茶路《ちやろ》に住むと云ふM氏の在否を調べて貰ふと、先には居たが、今は居ない、行方は一切分からぬと云ふ。兎も角も茶路に往つて尋ねる外はない。妻兒を宿に殘して、案内者を頼み、ゲートル、運動靴、洋傘《かさ》一柄《いつぺい》、身輕に出かける。時は最早午後の二時過ぎ。茶路までは三里。歸りはドウセ夜に入ると云ふので、余はポツケツトに懷中電燈を入れ、案内者は夜食の握飯と提灯を提げて居る。
海の音を背《うしろ》に、鐵道線路を踏切つて、西へ槍の柄の樣に眞直につけられた大路を行く。左右は一面じめ/\した泥炭地で、反魂香《はんごんかう》の黄や澤桔梗の紫や其他名を知らぬ草花が霜枯れかゝつた草を彩どつて居る。煙草の火でも落すと一月も二月もぷす/\燻《くすぶ》つて居ます、と案内者が云ふ。路の一方にはトロツコのレールが敷かれてある。其處此處で人夫がレールや枕木を取りはづして居る。
「如何《どう》するのかね」
「何、安田の炭鑛へかゝつてたんですがね。エ、二里ばかり、あ、あの山の陰になつてます。エ、最早|廢《よ》しちやつたんです」
案内者は斯《かう》云つて、仲に立つた者が此レールを請負つて、一間ばかりの橋一つにも五十圓の、枕木一本が幾圓のと、不當な儲をした事を話す。枕木は重にドス楢で、北海道に栗は少なく、釧路などには栗が三本と無いが、ドス楢は堅硬にして容易に朽ちず栗にも劣らぬさうである。
案内者は水戸《みと》の者であつた。五十そこらの氣輕さうな男。早くから北海道に渡つて、近年白糠に來て、小料理屋をやつて居る。
「隨分色々な者が入り込むで居るだらうね」
「エ、其りや色々な手合が來てまさア」
「隨分|破落戸《ならずもの》も居るだらうね」
「エ、何、其樣《そう》でもありませんが。――一人困つた奴が居ましてな。よく強淫をやりアがるんです。成る可く身分の好い人のかみさんだの娘だのをいくんです。身分の好い人だと、成丈外聞のない樣にしますからな。何時ぞやも、農家の娘でね、十五六のが草苅りに往つてたのを、奴が捉《つらま》へましてな。丁度其處に木を伐りに來た男が見つけて、大騷ぎになりました。――其奴ですか。到頭村から追ひ出されて、今では大津に往つて、漁場を稼いで居るつてことです」
山が三方から近く寄つて來た。唯有《とあ》る人家に立寄つて、井戸の水をもらつて飮む。桔※[#「槹」の「白」に代えて「自」、14−上−16]《はねつるべ》の釣瓶《つるべ》はバケツで、井戸側は徑《わたり》三尺もある桂の丸木の中をくりぬいたのである。一丈餘もある水際までぶつ通しらしい。而して水はさながら水晶である。まだ此邊までは耕地は無い。海上のガス即ち霧が襲うて來るので、根菜類は出來るが、地上に育つものは穀物蔬菜何も出來ず、どうしても三里内地に入らねば麥も何も出來ないのである。
鹿の角を澤山背負うて來る男に會うた。茶路川の水涸れた川床が左に見えて來た。
二里も來たかと思ふ頃、路は殆んど直角に右に折れて居る。最早茶路の入口だ。路傍に大きな草葺の家がある。
「一寸休むで往きましようかな」と云つて、案内者が先に立つて入る。
大きな爐をきつて、自在に大藥罐の湯がたぎつて居る。煤けた屋根裏からつりさげた藁苞《わらつと》に、燒いた小魚の串がさしてある。柱には大きなぼン/\が掛つて居る。廣くとつた土間の片隅は棚になつて、茶碗、皿、小鉢の類が多くのせてある。
額の少し禿げた天神髯の五十位の男が出て來た。案内者と二三の會話がある。
「茶路は誰を御訪ねなさるンですかね」
余はMの名を云つた。
「あ、Mさんですか。Mさんなれば最早《もう》茶路には居ません。昨年越しました。今は釧路に居ます。釧路の西幣舞《にしぬさまひ》町です。葬儀屋をやつてます。エ、エ、俺《わたし》とは極《ごく》懇意で、つい先月も遊びに往つて來ました」
と云つて、主は戸棚から一括した手紙はがきを取り出し、一枚づゝめくつて、一枚のはがきを取り出して見せた。まさしく其人の名がある。
「かみさんも一緒ですかね?」
實は彼は内地の郷里に妻子を置いて、渡道したきり、音信不通だが、風のたよりに彼地で妻を迎へて居ると云ふことが傳へられて居るのであつた。
「エ、かみさんも一緒に居ます。子供ですか、子供は居ません。たしか大きいのが滿洲に居るとか云ふことでしたつけ」
案外早く埓が明いたので、余は禮を云つて、直ぐ白糠《しらぬか》へ引かへした。
「分かつてようございました。エ、彼人《あのひと》ですか、たしか淡路《あはぢ》の人だと云ひます。飯屋をして、大分儲けると云ふことです」と案内者は云うた。
白糠《しらぬか》の宿に歸ると、秋の日が暮れて、ランプの蔭に妻兒が淋しく待つて居た。夕飯を食つて、八時過ぎの終列車で釧路に引返へす。
北海道の京都
釧路で尋ぬるM氏に會つて所要を果し、翌日池田を經て※[#「冫+陸のつくり」、15−上−13]別《りくんべつ》に往つて此行第一の目的なる關寛翁訪問を果し、滯留六日、旭川一泊、小樽一泊して、十月二日|二《ふた》たび札幌に入つた。
往きに一晝二夜、復へりに一晝夜、皮相を瞥見した札幌は、七年前に見た札幌とさして相違を見出す事が出來なかつた。耶蘇教信者が八萬の都府《とふ》に八百からあると云ふ。唯一臺來た自動車を市の共議で排斥したと云ふ。二日の夜は獨立教會でT牧師の説教を聞いて山形屋に眠り、翌日はT君、O君等と農科大學を見に往つた。博物館で見た熊の胃から出たアルコール漬の父親の手子供の手は、余の頭を痛くした。明治十四五年まで此札幌の附近にまだ熊が出沒したと思へば、北海道も開けたものである。宮部博士の説明で二三植物標本を見た。樺太の日露國境の邊で採收して新に命名された紫のサカイツツジ、其名は久しく聞いて居た冬蟲夏草《とうちうかさう》、木の髓を腐らす猿の腰かけ等。それから某君によりて昆蟲の標本を示され、美しい蝶、命短い蜉蝣《ふいう》の生活等につき面白い話を聞いた。楡《にれ》の蔭うつ大學の芝生、アカシヤの茂る大道の並木、北海道の京都札幌は好い都府である。
余等は其日の夜汽車で札幌を立ち、あくる一日を二たび大沼公園の小雨《こさめ》に遊び暮らし、其夜函館に往つて、また梅が香丸で北海道に惜しい別れを告げた。
津輕
青森に一夜明して、十月六日の朝|弘前《ひろさき》に往つた。
津輕《つがる》は今林檎王國の榮華時代である。弘前の城下町を通ると、ケラを被て目かご背負うた津輕女《つがるめ》も、草履はいて炭馬をひいた津輕男も、林檎喰ひ/\歩いて居る。代官町の大一と云ふ店で、東京に二箱仕出す。奧深い店は、林檎と、箱と、巨鋸屑《おがくづ》と、荷造りする男女で一ぱいであつた。
古い士族町、新しい商業町、場末のボロ町を通つて、岩木川を渡り、城北三里板柳村の方へ向うた。まだ雪を見ぬ岩木山《いはきやま》は、十月の朝日に桔梗の花の色をして居る。山を繞つて秋の田が一面に色づいて居る。街道は斷續|榲※[#「木+孛」、第3水準1−85−67]《まるめろ》の黄な村、林檎の紅い畑を過ぎて行く。二時間ばかりにして、岩木川の長橋を渡り、田舍町には家並の揃うて豐らしい板柳《いたやな》村に入つた。
板柳村のY君は、林檎園の監督をする傍、新派の歌をよみ文藝を好む人である。一二度粕谷の茅廬にも音づれた。余等はY君の家に一夜厄介になつた。文展で評判の好かつた不折《ふせつ》の「陶器つくり」の油繪、三千里の行脚《あんぎや》して此處にも滯留した碧梧桐「花林檎」の額、子規、碧、虚の短册、與謝野夫妻、竹柏園社中の短册など見た。十五町歩の林檎園に、撰屑《よりくづ》の林檎の可惜《あたら》轉がるのを見た。種々の林檎を味はうた。夜はY君の友にして村の重立たる人々にも會うた。余はタアナア水彩畫帖をY君に贈り、其フライリーフに左の出たらめを書きつけた。
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林檎|朱《あけ》に榲※[#「木+孛」、第3水準1−85−67]《まるめろ》黄なる秋の日を
岩木山下《いはきさんか》に君とかたらふ
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あくる朝は早く板柳《いたやな》村を辭した。岩木川の橋を渡つて、昨夜會面した諸君に告別し、Y君の案内により大急ぎで舞鶴城へかけ上り、津輕家祖先の甲胃の銅像の邊から岩木山を今一度眺め、大急ぎで寫眞をとり、大急ぎで停車場にかけつけた。Y君も大鰐《おほわに》まで送つて來て、こゝに袂を分つた。余等はこれから秋田、米澤、福島を經て歸村す可く汽車の旅をつゞけた。
底本:「現代日本紀行文学全集 北日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※底本では作者名を「徳富蘆花」としています。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年8月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.
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