た奴が居ましてな。よく強淫をやりアがるんです。成る可く身分の好い人のかみさんだの娘だのをいくんです。身分の好い人だと、成丈外聞のない樣にしますからな。何時ぞやも、農家の娘でね、十五六のが草苅りに往つてたのを、奴が捉《つらま》へましてな。丁度其處に木を伐りに來た男が見つけて、大騷ぎになりました。――其奴ですか。到頭村から追ひ出されて、今では大津に往つて、漁場を稼いで居るつてことです」
山が三方から近く寄つて來た。唯有《とあ》る人家に立寄つて、井戸の水をもらつて飮む。桔※[#「槹」の「白」に代えて「自」、14−上−16]《はねつるべ》の釣瓶《つるべ》はバケツで、井戸側は徑《わたり》三尺もある桂の丸木の中をくりぬいたのである。一丈餘もある水際までぶつ通しらしい。而して水はさながら水晶である。まだ此邊までは耕地は無い。海上のガス即ち霧が襲うて來るので、根菜類は出來るが、地上に育つものは穀物蔬菜何も出來ず、どうしても三里内地に入らねば麥も何も出來ないのである。
鹿の角を澤山背負うて來る男に會うた。茶路川の水涸れた川床が左に見えて來た。
二里も來たかと思ふ頃、路は殆んど直角に右に折れて居る。最早茶路の入口だ。路傍に大きな草葺の家がある。
「一寸休むで往きましようかな」と云つて、案内者が先に立つて入る。
大きな爐をきつて、自在に大藥罐の湯がたぎつて居る。煤けた屋根裏からつりさげた藁苞《わらつと》に、燒いた小魚の串がさしてある。柱には大きなぼン/\が掛つて居る。廣くとつた土間の片隅は棚になつて、茶碗、皿、小鉢の類が多くのせてある。
額の少し禿げた天神髯の五十位の男が出て來た。案内者と二三の會話がある。
「茶路は誰を御訪ねなさるンですかね」
余はMの名を云つた。
「あ、Mさんですか。Mさんなれば最早《もう》茶路には居ません。昨年越しました。今は釧路に居ます。釧路の西幣舞《にしぬさまひ》町です。葬儀屋をやつてます。エ、エ、俺《わたし》とは極《ごく》懇意で、つい先月も遊びに往つて來ました」
と云つて、主は戸棚から一括した手紙はがきを取り出し、一枚づゝめくつて、一枚のはがきを取り出して見せた。まさしく其人の名がある。
「かみさんも一緒ですかね?」
實は彼は内地の郷里に妻子を置いて、渡道したきり、音信不通だが、風のたよりに彼地で妻を迎へて居ると云ふことが傳へられて居るのであつた。
「エ、かみさんも一緒に居ます。子供ですか、子供は居ません。たしか大きいのが滿洲に居るとか云ふことでしたつけ」
案外早く埓が明いたので、余は禮を云つて、直ぐ白糠《しらぬか》へ引かへした。
「分かつてようございました。エ、彼人《あのひと》ですか、たしか淡路《あはぢ》の人だと云ひます。飯屋をして、大分儲けると云ふことです」と案内者は云うた。
白糠《しらぬか》の宿に歸ると、秋の日が暮れて、ランプの蔭に妻兒が淋しく待つて居た。夕飯を食つて、八時過ぎの終列車で釧路に引返へす。
北海道の京都
釧路で尋ぬるM氏に會つて所要を果し、翌日池田を經て※[#「冫+陸のつくり」、15−上−13]別《りくんべつ》に往つて此行第一の目的なる關寛翁訪問を果し、滯留六日、旭川一泊、小樽一泊して、十月二日|二《ふた》たび札幌に入つた。
往きに一晝二夜、復へりに一晝夜、皮相を瞥見した札幌は、七年前に見た札幌とさして相違を見出す事が出來なかつた。耶蘇教信者が八萬の都府《とふ》に八百からあると云ふ。唯一臺來た自動車を市の共議で排斥したと云ふ。二日の夜は獨立教會でT牧師の説教を聞いて山形屋に眠り、翌日はT君、O君等と農科大學を見に往つた。博物館で見た熊の胃から出たアルコール漬の父親の手子供の手は、余の頭を痛くした。明治十四五年まで此札幌の附近にまだ熊が出沒したと思へば、北海道も開けたものである。宮部博士の説明で二三植物標本を見た。樺太の日露國境の邊で採收して新に命名された紫のサカイツツジ、其名は久しく聞いて居た冬蟲夏草《とうちうかさう》、木の髓を腐らす猿の腰かけ等。それから某君によりて昆蟲の標本を示され、美しい蝶、命短い蜉蝣《ふいう》の生活等につき面白い話を聞いた。楡《にれ》の蔭うつ大學の芝生、アカシヤの茂る大道の並木、北海道の京都札幌は好い都府である。
余等は其日の夜汽車で札幌を立ち、あくる一日を二たび大沼公園の小雨《こさめ》に遊び暮らし、其夜函館に往つて、また梅が香丸で北海道に惜しい別れを告げた。
津輕
青森に一夜明して、十月六日の朝|弘前《ひろさき》に往つた。
津輕《つがる》は今林檎王國の榮華時代である。弘前の城下町を通ると、ケラを被て目かご背負うた津輕女《つがるめ》も、草履はいて炭馬をひいた津輕男も、林檎喰ひ/\歩いて居る。代官町の大一と云ふ店で、東京に二箱仕
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