2]と心がけた蝦夷富士を、蘭越驛《らんこしえき》で仰ぐを得た。形容端正、絶頂まで樹木を纏うて、秀潤《しうじゆん》の黛色《たいしよく》滴《したゝ》るばかり。頻《しきり》に登つて見たくなつた。車中知人O君の札幌農科大學に歸るに會つた。夏期休暇に朝鮮漫遊して、今其歸途である。余市《よいち》に來て、日本海の片影を見た。余市は北海道林檎の名産地。折からの夕日に、林檎畑は花の樣な色彩を見せた。あまり美しいので、賣子が持て來た網嚢《あみぶくろ》入のを二嚢買つた。
 O君は小樽《をたる》で下り、余等は八時札幌に着いて、山形屋に泊つた。

    中秋

 十八日。朝、旭川《あさひがは》へ向けて札幌を立つ。
 石狩平原《いしかりへいげん》は、水田已に黄ばむで居る。其間に、九月中旬まだ小麥の收穫をして居るのを見ると、また北海道の氣もちに復《か》へつた。
 十時、汽車は隧道《とんねる》を出て、川を見下ろす高い崖上の停車場にとまつた。神居古潭《かむゐこたん》である。急に思立つて、手荷物諸共|遽《あわ》てゝ汽車を下りた。
 改築中で割栗石《わりぐりいし》狼藉とした停車場を出で、茶店《さてん》で人を雇うて、鶴子と手荷物を負はせ、急勾配の崖を川へ下りた。暗緑色の石狩川が汪々《わう/\》と流れて居る。兩岸から鐵線《はりがね》で吊つたあぶなげな假橋が川を跨げて居る。橋の口に立札がある。文言を讀めば、曰く、五人以上同時に渡る可からず。
 恐《お》づ/\橋板を踏むと、足の底がふわりとして、一足毎に橋は左右に前後に上下に搖れる。飛騨山中、四國の祖谷《いや》山中などの藤蔓の橋の渡り心地がまさに斯樣《こんな》であらう。形ばかりの銕線《はりがね》の欄《てすり》はあるが、つかまつてゆる/\渡る氣にもなれぬ。下の流れを見ぬ樣にして一息に渡つた。橋の長さ二十四間。渡り終つて一息ついて居ると、炭俵を負うた若い女が山から下りて來たが、佇む余等に横目をくれて、飛ぶが如く彼吊橋を渡つて往つた。
 山下道を川に沿うて溯《さかのぼ》ること四五丁餘、細い煙突から白い煙を立てゝ居る木羽葺《こつぱぶき》のきたない家に來た。神居古潭《かむゐこたん》の鑛泉宿である。取りあへず裏二階の無縁疊《へりなしだゝみ》の一室に導かれた。やがて碁をうつて居た旭川の客が歸つて往つたので、表二階の方に移つた。硫黄《いわう》の臭がする鑛泉に入つて、二階にくつ
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