ん。貧乏人が一万円の札を手に入れたる時の心地ぞ斯くある可しと思ひぬ。偖招待券は首尾よく手に入りぬ。一難|纔《わづか》に去りて一難また到る、招待券には明記して曰く、燕尾服着用と。燕尾服、燕尾服、あゝ燕尾服、爾《なんぢ》を如何《いかん》。小生の古つゞらに貯《たくは》ふる処は僅にスコツチの背広が一|領《りやう》、其れも九年前に拵《こしら》へたれば窮屈なること夥《おびたゞ》しく、居敷《ゐしき》のあたり雑巾《ざふきん》の如くにさゝれて、白昼には市中をあるけぬ代物《しろもの》。あゝ困つたな、如何したものであらう、損料《そんれう》出して古着屋から借りるかな、など思うて居る内、燕尾服が無くて困るだろう、少し古いが余計なのが一領ある、貸してあげよう、ついでに着せもしてやらうと青山の兄から牡丹餅《ぼたもち》の様に甘《うま》い文言《もんごん》、偖こそ胸《むね》撫《な》で下し、招待券の御伴《おとも》して、逗子より新橋へは来りしなりけり。
燕尾服の手前もあれば、停車場前の理髪店に飛び込み、早く早くとせき立てながら、髪苅《かみか》り、髭剃《ひげそ》り、此れならば大丈夫と鏡を見れば、南無三、頭は仏蘭西《ふらんす》
前へ
次へ
全17ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング