は左なる喫煙室婦人室にそれ/″\入り行く。
 忽《たちま》ち青木外相夫婦及び令嬢が、ずうと玄関の入口まで出で行くを何事と眺むれば、閑院宮《かんゐんのみや》同妃殿下の来りたまへるなり。群衆はさつと道を開きぬ。外相は桃紅色《とうこうしよく》の洋服を召したまへる妃殿下を扶《たす》けて、先に立ち、宮殿下はエリサベツト夫人と相携《あひたづさ》へて、特別休憩室に入りたまひぬ。やがて有栖川宮《ありすがわのみや》同妃殿下、山階宮《やましなのみや》同妃殿下も来たまひぬ。新に入り来る客は漸く稀《まれ》になりて、集《つど》へる客は彼処に一団、此処に一|塊《くわい》、寄りて話し離れて歩む。彼処に大きな坊ちやまの如くにこ/\笑ひながら話すは、大山参謀総長なり。此処に眉《まゆ》を顰《ひそ》めて語るは児島惟謙《こじまゐけん》氏なり。顔も太く、腹も太く、肝《きも》太く、のそり/\と眼をあげて見廻すは大倉喜八郎氏なり。黄海の勇将は西比利亜《さいべりあ》の横断者と話し、議員の勇士は学界の俊秀と語る、何処を見ても名士の顔揃《かほぞろ》ひ、日本の機関を動かす脳髄は大抵此処に集まつて居ると思へば、彼処の話も聞いて見たく、此処の顔も覗《のぞ》きたく、身は一つ心は千々に走せまはつて、匆々《そう/\》忙々《ばう/\》と茫然自失する折から人を躍《をど》り立たす様な奏楽《そうがく》の音起つて、舞踏室の戸は左右に開かれぬ。

    (四)

 洋々たる奏楽の音起ると共に、外相は有栖川宮妃殿下を扶け、有栖川宮殿下はエリサベツト夫人と相挈《あひたづさ》へ、其の他やんごとなき方々香水のかをりを四方に薫《くん》じつゝ、舞踏室に入りたまひぬ。其のあとより舞踏手と見物と吾れさきに進み入る。余は素《もと》より舞踏なんど洒落《しやれ》た事には縁遠き男なれど、せめて所謂《いはゆる》ウオールフラワアの一人ともなりて花舞ひ蝶躍る珍しきさまを見て未代までの語り草にせばやと、人の背後よりのそ/\舞踏室に入りたり。
 此処は帝国ホテル随一の大広間《ホール》。正面には緑葉《りよくえふ》の地《ぢ》に「聖壽萬歳《せいじゆばんざい》」と白く菊花にてぬきたる大額をかゝげ、天井には隙間《すきま》もなく列国旗を掛けて、五色のアーク灯の光もあやに、床は鏡の如く磨きたればきら/\しく照り渡りて、燕尾服、桃紅色服《ときいろふく》、水色服、扇影《せんえい》、簪光参差《さんくわうしんし》として床の上に落ち散りたり。氷よりも滑かなる床のすべり易きに、吾は小心翼々としてぬき足さし足一分刻みに歩みつゝ、壁際に置かれたるソフアの辺《あたり》に立ちて見る。はや「カドリル」ははじまりて、聞くだにも吾足のひよこ/\浮き立つ陽気の調《しらべ》につれて、幾組の和洋男女は規則正しく一歩々々歩み出でては、また一歩々々歩み帰る。やがては入れ乱れ、入れちがへ、手をとり、くゞり、寄り、離れ、コムビネーシヨンの妙を極む。「ワルス」はあまり気にくはねど、「ポルカ」「ガロツプ」「ランセース」いづれもさら/\と元気よく、躍《をどり》にしても体操にしても極めて面白く思はれたり。数番の舞踏済みて、額《ひたひ》に加ふる白|手巾《ハンケチ》、胸のあたりに閃《ひらめ》く扇、出でゝラムネを飲むあれば、彼方此方と巡廻《へめぐ》りて、次の番組の相手を求むあり。きちようめんなる山県《やまがた》首相は閑院宮殿下、有栖川宮殿下と立ちながら何か話せば「聖壽萬歳」の額の下なるソフアには各妃殿下花の如くに坐して外国使臣の夫人なんどの挨拶に答へたまふ。時計の鏈《くさり》を繻珍《しゆちん》の帯の上に閃かしたるちゞれ毛の束髪の顔は醜くたけ矮《ひく》き夫人の六尺近き燕尾服の良人の面仰ぎつゝ何やらん甘へたる調子にて物尋ねらるゝ、曙染《あけぼのそめ》の振袖《ふりそで》に丈長《たけなが》のいと白《しろ》う緑鬢《りよくびん》にうつりたる二八ばかりの令嬢の姉なる人の袖に隠れて物馴れたる男の言《ものい》ふに言葉はなくて辞儀ばかりせられたる、蓄音機と速撮《はやどり》写真と欲《ほ》しき事のみ多し。斯る間を主人の外相の足にまつはる剣をうるさげに左手《ゆんで》に握りて、眼鏡の顔を少し仰むけ、あちこち行きかへりして心つけらるゝ御苦労千万――思へば外務大臣にも減多になれぬものなり。
 室内の温気《うんき》の耐へ難きに、吾はそつと此処を滑り出でゝ喫煙室の方に行きぬ。婦人室の前を過ぐる時、不図《ふと》室内を見入れたれば、寂々《せき/\》たる室の一隅の暖炉を擁《よう》し首を鳩《あつ》めて物語る二人の美人。よくよく見れば、伊東|巳代治《みよぢ》の君と岡崎邦輔の君となり。何れ劣らぬ梅桜、世にもしほらしき人達にて在《おは》せば、婦人室は尤も似つかはしく、何事をか語らひて居たまひけん。其は知らねど、政治小説でも書く人ならば、見|※[#「
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