二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]《のが》すまじき場《シーン》なるべしと思ひたりき。
 喫煙室には煙草の煙の間に、談話湧き、人顔おぼろに見え、テーブルの上には錦手《にしきて》の皿にまき羊羹《ようかん》の様なるものを積みたり。先刻より空腹に、好物のまき羊羹を見て咽《のんど》は頻《しき》りに鳴る。一つつまんで見て呀《あつ》と心に叫びぬ。南無三、此は葉巻だ、喫煙室に葉巻の接待はさうあるべき筈。君子は義を喩《さと》り下戸《げこ》は甘きに喩《さと》る、偖こそ御里があらはれたれ、眼が近いに気が遠いと来て居るので、すんでの事に葉巻を一口に頬張《ほゝば》つて、まんまと耻を帝国ホテルに曝《さら》す所だつた。誰か気づきはしなかつたかと恐々《こは/″\》ながら見廻せば、そんな様子もなし、あゝ危いかな、君子危きに近寄らず、こんな所は早く出るに若かずとそこ/\に喫煙室を廊下に出る時、はたと行き逢ひたる二人の一人は目から鼻へぬける様な通人の林田|翰長《かんちやう》、半面の識《しき》もあればと一礼するに、何しに来たと云ふ様な冷瞥《れいべつ》を頭から浴《あび》せられ、そこ/\に退陣しつ。今一人の薄汚なき小男を後にて聞けば、失敬な世に安伴《あんばん》と呼ばれて中々《なか/\》甘《あま》くない精悍《せいかん》機敏《きびん》の局長なりけり。
 左る程に舞踏の五番済みて、立食の堂《だう》開かれたれば、衆賓《しゆうひん》吾も/\と急ぎ行く。吾もつゞいて入るに、こゝは此度新に建てし長方形の仮屋《かりや》にて二列にテーブルを据ゑ、菓子の塔《たふ》柿林檎の山、小豚の丸煮《まるに》、魚、鳥の丸煮など、かず/\の珍味を並べ、テーブルの向ふには給仕ありて、客の為に皿を渡し、物を盛る。吾は皿とナイフ、フオクを受取りておづ/\小豚を襲ひたれども、皮《かは》硬《かた》うして素人《しろうと》の手に刻まれねば、給仕を頼みて切りて貰ひ、片隅に割拠《かつきよ》し、食ひつゝ四方を見るに、丸髷《まるまげ》の夫人大口開いて焼鳥を召し、金縁《きんぶち》眼鏡の紳士林檎柿など山の如く盛りたる皿を小脇《こわき》にかゝへて「分捕々々《ぶんどり/\》」と駆けて来たまふなど、ポンチの材料も少からず。中にも面白きは清国人《しんこくじん》の何れの身分ある人物にや、緞子《どんす》の服の美々しきが、一|大皿《だいへい》を片手に、片手はナイフ、フオクを握りて、魚と云はず、鳥と云はず片端より截《き》りては載せ、截りては載せ、こゝを先途《せんど》とまづ貯《たくは》へたまひけるが、何れの武官にやそゝくさ此方へ来らるゝ拍子《ひやうし》に清人の手にせし皿を斜《なゝめ》めにし、鳥飛んで空にあり、魚|床《ゆか》に躍り、折角の赤筋入りたるズボンをあたらだいなしにして呆然《ばうぜん》としたまひし此方には、件《くだん》の清人《しんじん》惜《を》しき事しつと云ひ顔に遽《あわ》てゝ床の上《うへ》なるものを匙《さじ》もてすくひて皿に復《かへ》されたるなど、其の国の気風|性癖《せいへき》も見えて面白かりき。
 食堂を出でゝ、再び舞踏室に入る。夜は漸く深けて興いよ/\深し。ワルスの調《しらべ》面白く、吾も内々《ない/\》靴のかゝとを上げ下げして、今にも踊り出さうになりぬ。忽ち場内のわあつと騒ぎ立ちて、撞《どう》と音《おと》するを見れば、斯は如何に紅色《くれなゐ》の洋装婦人と踊り狂へる六尺ゆたかの洋人の其の鼻|尤《もつと》も鳶《とび》に似たるが、床の滑かなるに足踏み辷らして、大山の頽《くづ》るゝ如く倒れしなりけり。洋装婦人の顔は着たる衣の其れよりも紅《くれなゐ》になりぬ。倒れし男はそこ/\に舞踏室を逃げ出したり。
 成程花は半開、興は八分、あまりに狂へば過《あやまち》に終る、最早夜も一時を過ぎて、宮家の方々も帰りたまひぬ。さき程よりストオヴの暖気、ヴアイオレツトの香《かほり》、嬌紅《けうこう》艶紫《えんし》の衣の色、指環《ゆびわ》腕環《うでわ》の金玉の光、美人(と云はむは偽《いつはり》なるべし、余は不幸にして唯一人も美人をば夜会の席に見る能はざりければ)の微笑、勲章大礼服の閃き、などに射られて少々|逆上《のぼせ》気味の、長座せばいよ/\のぼせて、木曾殿も都化《みやこくわ》して布衣《ほい》を誇る身の万一|人爵《じんしやく》崇拝と宗旨変《しゆうしかへ》でもしては大変、最早こゝらが切り上げ時と、先刻よりはなればなれになりし兄を尋ぬるに、これはずるい、いつかさつさとお帰りになつて居る。
 後《おく》れたり、と玄関に走せ出で、やつと車を見出して、急げ/\と車夫を急がし、卅分後に兄に窮屈千万なる「余が最初の燕尾服」を脱ぎぬ。



底本:「日本の名随筆 別巻75 紳士」作品社
   1997(平成9)年5月25日第1刷発行
底本の親本:「蘆花全集 第三巻
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